January 12, 2010

2009年度 忘年会

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■2009,11,28(土)

■NPO東アジア交流学院・忘年会

宮崎への取材の帰りに久留米に立ち寄った。公開講座に出席することと、忘年会に参加することである。

公開講座での報告では、久留米文化財保護課による上津土塁の年代を出土土器から7〜8世紀ころのものとしているが、一方で「筑紫大地震」の地震痕跡があることで678年以前に築造されたものとしている。担当者の苦渋の選択が偲ばれる書き方である。土器年代測定だけに頼るのは無理があるということだろう。

今回の公開講座のようにシンポジウムでの発表に注目し、検証を重ねていくことで、いわゆる古代史学会の定説なるものがいかにあやふやなものであるか明らかにしていくことが大事なことだと思う。

公開講座の後忘年会は、「上海夢飯店」で行われた。久留米大学卒業の楊明さんが開いた中華料理のレストランである。そういえば、昼食も西鉄久留米駅にある「○○」だった。こちらも楊明さんの水餃子専門店である。本日二回目の中華料理ということになった。

久留米近郊の会員と中国語教室受講生の皆さんが集まった。今年の反省と感謝をこめて、久々に会話が弾み楽しいひと時となった。

 

 

 

  

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March 31, 2009

ふるさと筑紫おもしろ講座

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■2009,3,20(金)

■場 所;九州国立博物館

■テーマ;「太宰府は日本の首都だった」

福岡県太宰府の地元宅建業界から招聘されて講演をすることになった。推薦していただいた筑紫支部のAさんは、先月のNPO法人東アジア交流学院での公開講座にもきていただいて、郷土の知られざる古代史に興味を持たれてもっと多くの人に知ってもらいたいと考えてある方だ。

講演に先立ち紹介していただいた支部長さんからは、「太宰府は日本の首都だった」というタイトルは非常に刺激的だとおっしゃってあったが、われわれ古代史研究の仲間内ではある意味常識となっている。古田武彦氏の九州王朝説が、なかなか一般に浸透していないと感じさせられる一こまであった。

それでも来場者は、九州国立博物館の研修室がほぼ満席となる100人くらいの参加があった。九州王朝についての中身はべつとして、地元の知られざる歴史を広めたいとの主催者の意図は達成されたのではないだろうか。

講演の内容については、著書の「太宰府は日本の首都だった」を読んでいただければ幸いだが、理化学的年代測定=C14測定によればと九州のほとんどの遺跡は現在判断されているよりももっと古いと言うことだ。

このことは、大和王権によって建築・建造されたとされるものではなく、それに先立つ九州王朝の存在を示しているものと考えられる。この点を細かく説明したつもりだが、どの程度理解していただけただろうか。このことについては、今年7月の久留米大学での公開講座でさらに詳しくお話しさせていただくつもりである。

  
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September 24, 2008

佐賀・徐福国際シンポジウム

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■「徐福と吉野ヶ里」に迫る

===10月11、12日佐賀で国際シンポジウムが開催===

紀元前3世紀に不老不死の仙薬を求めて日本に渡海したとされる「徐福」に関する「佐賀・徐福国際シンポジウム」(佐賀県徐福会主催、西日本新聞社など後援)が、10月に佐賀市周辺で開催される。

昨年、徐福の故郷を訪ねる「蓮雲港・古代交流史の旅」を行ったNPO東アジア交流学院として、ぜひ参加しなくてはならないだろう。蓮雲港市徐福研究所・所長の張先生も参加されるに違いない。彼の地では、徐福の故郷など案内をしていただいた思い出がある。

新聞発表によると、渡来伝承が残る国内各地や、徐福とゆかりがある中国、韓国、台湾から研究者や市民が参加し一般参加もできる。テーマは「徐福と吉野ヶ里遺跡」である。

佐賀には、徐福上陸地をはじめ、徐福を祀る神社など多数の「足跡」が存在する。徐福の渡来と時期が重なることから、弥生時代最大の環濠集落跡吉野ヶ里遺跡とのかかわりを指摘されてもいる。それらについても考察が進められることだろう。

当学院でも徐福については、フィールドワークなども開催し研究を進めているところだ。吉野ヶ里遺跡と徐福の関係が、どのように模索されているのか興味があるところである。

●佐賀・金立にある、徐福長寿館内の徐福像。公園内には、連雲港市から贈られた徐福の立像も設置されている。

 

  
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February 02, 2007

NPO法人東アジア交流学院 新年会

c30beb28.JPG 2007年1月27日(土)

1月公開講座修了後、当交流学院事務所の階下にあるかくれ家「あるじゃん」で新年会を行った。このお店は、事務所に最も近いこともあって、よく利用させて頂いている。公開講座には間に合わなかった会員も、新年会には間に合うよう駆けつけてくれた。感謝!公開講座のあと参加できなかった方には、残念!このつぎは是非!

話題は当然、今回の講座のテーマである「井 真成」さんのことであった。が、それも次々に変わるのはしょうがないことでしょうね。それでも、会員の皆さんたちとの宴会は愉快だった。

来月のフィールドワークでは、この仲間たちと「井 真成」の故郷を訪ねてみることが楽しみである。皆さん、当日は少し早起きをしましょうね。(笑)  続きを読む
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December 01, 2006

NPO法人東アジア交流学院 忘年会

62dfca74.jpg 本年も、恒例の忘年会の季節となった。師走には少し早いが、11月の公開講座(11月26日)終了後に忘年会を行った。会員の方々には、それぞれご多忙だったり、講師の梶村さんのご親戚にはご不幸があったりと、参加者は少なくて残念だったが今年一年を振り返るいい飲み会となった。

会場は、久留米大学の大学院生でもある楊明(ヤンミン)さんの「上海夢飯店」である。今年の7月にオープンしたばかりの、中華レストランである。

■上海夢飯店の紹介
●オーナー ;楊明(ヤンミン)上海出身 久留米大学経済学部博士課程
●住   所 ;久留米市東町459−1 福銀東久留米支店北100M
●T  E  L     ;0942−39−8266(宴会の場合は、要予約)
●営業時間;AM11:00〜PM10:00(ラストオーダー)

本物の上海中華の味をご賞味下さい。上海夢飯店の餃子は手作りです。とてもハオチーですよ。具材も何種類もあり、すべて手作りです。日本では焼き餃子が主流ですが、この店の「水餃子」を食べたら癖になりますよ。もちろん「焼き餃子」もあります。私は「水餃子」の方が好きです。キッパリ!(笑)

それに加えて嬉しいことにお昼のランチタイムには、この店自慢の中華バイキング(AM11:30からPM2:00まで)が、なんと!888円で楽しめる。種類も10種類以上あるから、とてもお得である。

この店のおいしさの秘密は、まず一番に、日本人の舌に合うあっさり味の中華だということだ。「中華料理は油っこいから苦手だ!」・・・という人にこそ、食べて頂きたいものだ。是非、行ってみる価値有りですよ。

その中華料理を堪能しながらの会食は、あっという間に時間が過ぎてしまった。

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November 06, 2006

知られざる「太宰府」 水城

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先日、知人からファックスが届いた。古代史に関心を持って、個人的に研究を進めている友人からであった。実に簡潔にまとめられた原稿であるので、NPO法人東アジア交流学院のブログで紹介させていただくことにする。このことで、少しでも多くの人たちの認識が変わることを期待したい。

■知られざる「太宰府」 水城
■太宰府市商工会広報委員・武藤英毅

白村江(パクソンガン・はくすきのえ)の敗戦後、唐(タン・とう)・新羅(シルラ・しらぎ)連合軍の進行を防ぐ目的で水城が築かれたと教えられている。その根拠は「日本書紀」天智天皇三年(664年)の項にある。「この歳・・・、筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ、名づけて水城という。」

1995年からの発掘調査で、土塁の中から石積み付きの別の水城が出てきている。更に太宰府側から博多湾側の壕に水を注ぐ目的で、土塁の下部に据えられていた木樋(もくひ)の年代測定値が、最新データで補正して540年頃になるという。日本書紀の記述より100年以上古いことになる。

堤の構造は、土がすべって崩れるのを防ぐ「敷粗朶(しきそだ)工法」という現代の工法と同じ構造である。土塁下部の木樋(もくひ)は丁寧に粘土でくるまれており、土中に埋められた門柱の根本も柔らかい粘土で巻かれていた。これは地震の時、門全体をゆったりと揺らせて衝撃を吸収するものである。

白村江の敗戦後の混乱時、一年間でこのような堤が築造可能であろうか?また、博多湾側の壕に水を貯えていたという通説も大いに疑問である。

前原市にある雷山千如寺の由来を書いた「縁起」に水城が出てくる。神話的記述ではあるが、外敵の襲来に水城を築いて敵を溺れ漂わせたという話である。水の入った壕に入り溺れる敵はいない。外濠を空にしておき、敵が壕内へと攻めてきたのを見計らって、内壕から一気に放流すればどうであろう。

北部九州には「満珠干珠(まんじゅかんじゅ)」の伝説が濃厚に伝えられている。海から攻めてきた敵に、海神から授けられた「干珠(かんじゅ)」を投げて潮を干し、敵が油断して舟から降りた時に「満珠(まんじゅ)」を投げて潮を満ちさせて敵を溺れさせたという話である。

海の不思議な干満を知りつくした人々、それは「倭の五王が君臨していた国」すなわち九州政権に携わった人々である。彼らこそが水城を造った人々であり、7世紀後半にそれを大和政権が修復したというのが真実ではあるまいか。後で乗り込んできた大和政権は、水城の仕掛けの役割を知る由もなかったのだろう。

「水城の土手の長々と水田は・・・わが母校」水城小学校の校歌3番である。因みに私は、水城小学校31年卒業生。水城の土手は天智天皇が築造したと教わり、ことあるごとに校歌を斉唱し、そのまま疑わず「習い性」となっている。

歴史の真実は、人為的行為・制度等によって事実の裏側に隠されている場合が多々ある。この観点からして大正初期建造の水城の記念碑は、疑問の多い日本正史「日本書紀」の記述を事実化することになると思う。(内務省境界柱有)

従って国博一周年に因んで、水城堤築造から1342年を迎えると踏襲するのは如何なものだろうと思うのは筆者一人であろうか。

歴史の真実が判明したときには、その時代の人々の手で曲学阿世を糺すべきである。今に生きる我々も後世の為、事実を正しく書き留める責任を課せられる。其の時、「世界の水城堤」は光輝くことだろう。

※参考資料:「太宰府は日本の首都だった」内倉武久・ミネルヴァ書房



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July 15, 2006

台湾 故宮博物院

理事長の部屋・アラカルト
 故宮博物院を訪ねて

◎この4月初め、台湾へ出かけた。台北にある故宮博物院を見学するためだ。北京には故宮博物館があり、こちらの方は4半世紀前に見学した。いずれも中国の歴代王朝が莫大な費用を投じて集めた「お宝」を納めている。

◎第二次世界大戦の後、共産党軍に追われて台湾に逃げた国民党の蒋介石らが、北京の博物館の「お宝」を貨車70数両に載せ、密かに持ち出したという。

◎台北市の博物院は、市北東部の郊外にあり、現在改修中ということだったが、白壁に橙色の中国風瓦をのせたわりと簡素な造り。清時代の宮城をそっくり利用し、規模雄大な北京の博物館とは比べようがない。

◎しかし、展示物はたしかにすごい。2000年ほど前の漢時代の陶器や、北宋時代の磁器が今窯から出てきたばかり、と思おうほどつややかな光沢を放っている。一点数百万円、数千万円という逸品がずらりと並んでいる。

◎北京の博物館は、おかげで「お宝」はきわめて少ない、というかほとんどない。しかし、大国の皇帝がどんな暮らしをしていたかがよくわかるし、戦後に発掘された出土品もあって、勉強にはなる。

◎台北の博物院の展示物は、骨董趣味のある人にとっては垂涎の的だろう。が、僕はお金にはあまり縁のない男ということもあるのだろう、「お宝」をみてもその美術的な美しさ以外、ほとんど感動しなかった。別世界だ。  
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November 20, 2005

北京視察 2005.11/9(水)〜18(金)

理事長の部屋・アラカルト

北京今昔


■北京の中心街、王府井の街頭
57a96bd5.JPG◎11月中旬、半年振りに北京を訪ねた。半年振り、といっても半年前はわずか二日間だけの滞在だったから、落ち着いて北京の状況を見るのは何十年ぶりといってもいい。急速な経済発展を続けているだけに、混乱している部分もあるが様相も一変していた。


◎北京国際空港から北京市街までは約30キロ。公営のリムジンを使うとわずか16元(約240円)という安さだ。公営バスは一路線乗り放題で1元(約15円)から2元、地下鉄は全線3元だ。空港から公営リムジンを使って随分節約したつもりになり、悦に浸っていた。


◎だが、落とし穴が待っていた。予約していたホテルの位置がはっきりしなかったので、誘われるままに北京駅から円タクに乗った。20元取られた。次の朝、外に出てみてびっくり。目の前300メートルのところに北京駅の建物がそびえていた。いっぱい食わされたのだ。円タクの運ちゃんはぐるぐる回りをして久しぶり?にカモの味を満喫しただろう。



■中国のシンクタンクである、北京社会科学院の建物(北京市建門大街)
459e2ff4.JPG◎2008年の北京オリンピックを控えて、街角には冷え込んだ中、朝早くからほうきを手にして赤い防寒服に身を固めた人々が大勢出て、道路の清掃作業に精を出していた。メインストリートはほぼきれいな状態を保っていたが、一歩裏通りに入ると、まだごみや痰が撒き散らされていた。


◎買い物は一人では怖くて行けない。値段表示はあってないのと同じ。うっかり店に入ったら手をつかまれて放してくれない。同行してもらった中国人のお陰で300元と表示のあるトランクが180元に。でも後でまだねばるべきだよ、と言われた。値段をめぐって激しい攻防が続く。


◎品質にもまだ問題あった。トランクに付いていた磁石はすぐにはずれて行方不明になったし、縫い代も一部がほころびていたのをホッチキスでごまかしてあった。40年前の発展途上過程の日本を思い出した。


◎でも、中国の人々の多くはとても暖かい。精一杯のもてなしをしてくれる。義理にも厚い。日本人も中国人も、そして朝鮮人も、若干の風俗習慣の違いこそあれ、根っこは皆同じ東洋人であることを再認識した旅でもあった。様々な障害を乗り越えて発展していくだろう。  
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July 16, 2005

井真成さんは九州人?

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井真成さん は九州人?

◎去年の10月の話だからいささか古い話で、多くの人が忘れてしまっているとは思いますが,中国の西安で、遣唐使として渡った「井 真成」という人の墓誌が見つかった、というビッグニュースがありました。

◎新聞は古代史の専門家の意見だとしてこの「井」さんは、渡来人系の「井上」のことだとか、大阪の藤井寺市一帯の豪族であった「葛井」のことではないかと報道しました。関西は大いに盛り上がり、西安に石碑を建てる運動にも発展しています。

◎ でも、僕は最初から疑っていました。「井上」とか「葛井」という姓だったら「井」と名乗るはずがないだろう、と。皆、自分の姓には誇りを持ち、偽名や変名を使うのは悪いことをする時か、違う人格になりたいと思った時でしょう。

◎墓誌の銘文によると、「井」さんはわき目もふらず勉学に励んだ人のようです。唐の玄宗皇帝までもがその人格を高く評価して、死後、位を贈ったほどの人です。名前を変える必要はなかったでしょう。遣唐使という言葉は墓誌にはありません。

◎ やっぱり、でした。本名を「井」という人たちが九州は阿蘇地方に今でもいっぱいいたんです。高校教師をしている室伏さんと言う人が、教え子のなかに「井」君がいたことを思い出して、調べた結果わかりました。

◎「井」さんらの話では、「井」一族は神武天皇とも関わりのある古い時代からの名前で、有力豪族だった。「真成」さんが一族の記録にあるかどうかは、今はわからないそうですが。

◎ 「真成」さんはなんのために中国にいったのでしょうか。ポイントは「銜命(かんめい)」の文字でしょう。君主の命令で使者にたつことです。遣唐使の一員と考えても悪くはないが、銜は馬のくつわの意味で、正式な使節ではない感じも。

◎要は古代史の専門家とやらは、「井」などという中国風の姓は日本にはないと思い込んで、いいかげんな推測をしゃべっていたわけです。この件もほんの一例ですが、日本の古代史というのは、実にいいかげんな仮説の上にたっています。(内倉)
  
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