March 16, 2010

印鑰神社の秘密 PART2

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■2009,2,28(日)

■テーマ;「印鑰(いんにゃく・いんやく)神社の秘密」 PART2

■講 師;田所寛和 NPO東アジア交流学院

1月の公開講座では、「中国・韓国の一人旅をして・・・」と題して、一人旅の極意を堀江真史さんに語っていただきました。公開講座後には、新年会を開催して親睦を深めました。

今回の公開講座では、9月のPART1に引き続き田所さんに倭国を支えた神籠石系山城と印鑰神社との関係を話していただきました。

■要 旨;

倭王・武が南朝劉宋の順帝に送った上表文には、「其の余は咸な仮授して、以って忠節を勧む」とあり、このことと印鑰神社が結びつくのではないかと考えている。

前回、指持節都督○○将軍倭国王である倭の五王が、中国の官制に倣って設置した官職(軍団)の臣下に下賜した印(軍団印)と鍵(兵糧倉)を祀る神社であるとの仮説を示した。北部九州に点在する神籠石系山城と朝鮮式山城が、倭国の軍事基地であり、軍団が置かれていたことを考察してみたいと考える。

1から4まで省略

5,其の余は咸仮授して、以て忠節を勧むとは?

上表文によれば、倭王の支配地域は200カ国を越える。倭国の首都である太宰府を中心に5方面を考えることを前回話したが、今回は、その根拠を話してみたいと思う。

筑前に4;大野城・鹿毛馬神籠石・怡土城(雷山神籠石)・阿志岐山城

筑後に3;久留米(高良山神籠石)・八女(女山神籠石)・杷木神籠石

豊前に2;御所ヶ谷神籠石・唐原神籠石

肥前に3;基肄城・帯隈山神籠石・おつぼ山神籠石

海北に2;対馬(金田城)・壱岐・・・?

阿志岐山城については、記録に残ってないので神籠石系山城になると考える。また、水城の守備は、御笠団が担当していたと考えられる。

6,神籠石系山城と軍団の根拠は?

7世紀の律令制下での軍団印が発見されている。御笠団印と遠賀団印である。いずれも一遍4,2�の方形鋳銅印である。

御笠団印は、1927年、太宰府市国分字堀田の桑畑で発見されている。また、遠賀団印は、1899年、御笠北高等小学校(現 太宰府市立水城小学校)の校舎用地造成時に発見されている。いずれも、筑前国府跡であるとされている。

「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」に、九州に18軍団、総数1万7,100人の記録がある。「太宰府官符」;光仁4年(813年)の記録を合わせると・・・

筑前国;4軍団(4,000人→2,000人) 御笠団・遠賀団は確認

筑後国;3軍団(3,000人→1,500人)

豊前国;2軍団(2,000人→1,000人)

豊後国;2軍団(1,600人→1,000人)

肥前国;3軍団(2,500人→1,500人)

肥後国;4軍団(4,000人→2,000人)

律令制の下での軍団配置は、倭国の軍団配置を踏襲したものであると考えられる。アジア太平洋戦争後にアメリカ軍の進駐が行われたが、旧日本軍の基地を接収して使用している。

律令制の軍団配置と朝鮮式山城、神籠石系山城の配置が見事に一致する。このことは、付近に軍団を配置すべき重要な拠点があるのではないだろうか。

倭国の首都である太宰府を守るために、大野城と阿志岐城がある。筑後国府の先行官衙の側には高良山神籠石がある。帯隈山神籠石のすぐ南には、弥生時代の国邑吉野ヶ里遺跡がある。

したがって、軍団の配置場所が特定され、近くに印鑰神社があることが証明できれば・・・と考える。

□参考資料

「倭国ここに在り」 吉留路樹 葦書房(1991,11)

「古代史発見 第三回独創の古代 未来への視点」 古田武彦(1998,10)

「太宰府は日本の首都だった」 内倉武久 ミネルヴァ書房(2000,6)

「真実の日本史」 川井田 豊 (2002,2)公開講座資料

「歴史の資料」福岡県版 福岡県中学校郷土教育研究会編 正進社(2007,4)

「城柵を繕い山川を断ち塞ぐ」 久留米市埋蔵文化財センター (2009,10)

 

 

 

  

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January 30, 2010

2010年1月 公開講座 その2

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■2010,1,23(土)

■テーマ;「中国・韓国の一人旅をして・・・」

=旅の極意を考える=

■講 師;堀江 真史さん 福岡工業大学3年 NPO東アジア交流学院

■要 旨;その2

◎中国の旅行事情 ●交通手段

中国へのフェリーは、山口県下関から青島と太倉(タイサン)コンテナ港の2航路がある。太倉は上海の北西、長江河口付近にある。現在は運休中で、来年の夏に再開する予定である。

中国国内の都市間の交通手段には航空機、鉄道、高速バスなどがある。航空機では、今年見つけた上海に本社がある「春秋航空」が格安である。上海・青島間が300元という安さである。ただし、機内サービスは水だけ!食事を頼むと高い!やたらと機内販売をする。

鉄道は寝台快速がお勧め。硬座寝台のチケットは購入するのにコツがある。10日前から販売されるが駅では購入しにくい(人が多い!)ので、都市中心部にある出張所で購入すると買い求めしやすい。

新幹線も便利で早く移動できる。北京・上海間は10時間。寝台新幹線があり、夜出発して朝には目的地に到着する。ただし、20時間以上乗る寝台快速は非常に疲れるのでできるだけ避けた方が無難である。

都市間バスでは高速道路を通る高速バスがその中心で、鉄道路線がない都市間で利用する。一般道路を通行する各駅停車バスもある。こちらは手を上げるとどこでも停車して乗ることができる。時間がかかりそうだが、それでも煙台・青島間は2時間半くらいで着くことができる。

地方都市からさらに田舎に行くためには、田舎バスを利用する。満席になるまで出発しない。途中の町でも同じ。故障以外でも止まる。昼食時間になると停車して弁当時間になる。乗客も心得たもので、ちゃんと弁当を買い込んで乗っている。自分だけその間ただ待っていた。

田舎町からさらに田舎に行くのには、バイクタクシーがある。終点のバス停には、何台ものバイクタクシーが待ち構えていて客待ちをしている。バスから降りてきた乗客と交渉が成立すると、それぞれの方向へと走り去っていく。夕方5時を過ぎるくらいになると、いつの間にか1台もいなくなってしまう。料金は10kmで20〜30元である。

都市部では、タクシーが多い。大連近郊には三輪タクシーがある。また、白タクも多い。が、こちらは利用しないが無難である。

市街地の交通手段としては、上海、北京、広州などでは地下鉄(地鉄)を利用する。市内バスも安い。どこまで乗っても、1元。エアコン付は2元。これらを利用するのには交通カードが便利で安い。その都市でしか使えないが、北京のバスカードはなんと6割引でお得である。

●宿泊

ボロホテルを利用する。料金は100元〜150元。駅に近いと部屋もけっこうきれいで、シャワーもちゃんとお湯がでる。お湯が出ない水の時は、近くの銭湯へ行く。40元でマッサージ付である。

ビジネスホテルも利用する。如家、MOTEL168、速8などのビジネスホテルチェーンを利用する。如家は中国全土に500店以上ある。どこも料金は、130元〜220元。インターネットなどで予約すると20元安くなる。

昔ながらの招待所、旅館は、シャワーが出ない、または水シャワーだけなのでやめておいた方がよい。

●食事

町の食堂を利用する。イスラム食堂が安くて旨い。「蘭州」「ラサ」などすぐにイスラム食堂とわかるネーミングになっている。従業員がウイグル族チベット族がほとんどだから、安くできるのだろう。

朝は、街角のマントウ売りを利用する。セイロを積み上げてあるのでわかりやすい。具入りのマントウが1元〜2元。列車などの車内販売は街の2倍はするので、買ってから乗るように心がけている。

※●銀行口座開設 ●携帯電話購入は、ブログでの紹介は省略する。

  
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January 20, 2010

2010年1月 公開講座 その1

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■2010,1,23(土)

■テーマ;「中国・韓国の一人旅をして・・・」

=旅の極意を考える=

■講 師;堀江 真史さん 福岡工業大学3年・NPO東アジア交流学院

11月公開講座は、シンポジウムの報告会を開催し、その後「忘年会」となった。報告会では、吉野ヶ里での「なぜ邪馬台国は九州か」と高良山神籠石サミットの報告をしてもらった。シンポジウムでの発表は、最新の発掘調査のデータなどをを学ぶいい機会である。

邪馬台国でなく邪馬壹国であり、倭国=九州王朝と考える私たちにとってはもっと踏み込んだ討論を期待していたのだが、どちらもオブラートにくるんだような発言ばかりで九州説を補強するような新しい発掘調査の報告もなかったのが残念であった。

今回の1月公開講座では、古代史から少し間をおいて現代の中国・韓国の旅事情に詳しい堀江さんに講師として来ていただいた。彼はかつて一緒に東アジア交流学院の中国語教室で一緒に学んだ人であるが、いつの間にやら中国語のみならず韓国語までマスターしてしまった語学才能あふれる人物なのである。

その秘密が中国・韓国への一人旅なのだが、彼に一人旅の経験を語ってもらう中で、サブテーマにある「旅の極意を考える」を深めていきたい。

■要 旨;その1

一、はじめに

私が高校1年生のときに、学校の図書館で「深夜特急」という旅行記を読んだことがきっかけで、それから一人旅に出たいと思うようになった。

二、今までの一人旅経験

1、2005年;はじめての一人旅(釜山・晋州 6日間)

郵便局でアルバイトをして貯めたお金で、高校2年の夏休みに韓国へ出かけた。高校1年生のときの「福岡YWCA日韓交流ホームスティ」で知り合った友達に会いに行った。宿の探し方、旅立つ前の情報収集のしかた、国際電話のかけ方、町の人との会話など一人旅に必要なことをいろいろと学んだ。それにプラス、度胸が必要である。

2、2007年;大学の友達と韓国へ(ソウル・釜山・晋州・馬山・昌原 11日間)

大学に入学してからアルバイトで貯めたお金で、高校からの友達と一緒に韓国へ3人旅に出る。友達は予算の都合で途中帰国したので、後は一人旅となる。去年あった友達に再会。都市から都市への移動中に見る田舎の風景を見て、田舎に行ってみたいと思い始める。

3、2008年;はじめての中国一人旅(太倉・上海・合肥・北京・大連・煙台・青島・済南 24日間)

02年「久留米合肥友好大使」の時に知り合った友達と、「日中友好文通の会」で知り合ったペンフレンドに会いに中国へ。列車の切符を買う大変さを味わった。少しでもお金を節約するために、下関からフェリーに40時間乗って行った。

合肥では、友達に6年ぶりに再会する。ホテル伯の予定だったが、友達が家に泊めてくれた。北京はパラリンピック中で、中国中がオリンピック一色だった。大連ではペンパルに初めて会った。手紙に書いていた事を中心に、おしゃべりで大いに盛り上がった。

下関からフェリーで降り立った「太倉」という町と煙台から青島へのバスに乗って途中で見た田舎町を見て、中国でも田舎に行きたいと思い始める。台風の影響で、船が欠航して4日間足止めを食らう。しかし、そのおかげで済南という都市へ小旅行ができた。

4、2009年;はじめての香港、中国田舎旅(青島・上海・深圳・香港・開平・太倉・啓東・大連 37日間)

去年のオリンピックムードの名残がまだ残っていた。スローガンを書いた垂れ幕などが、まだ残っていた。今回も船で中国へ。「深夜特急」を読んでから、ずっと行きたいと思っていた香港へ。そして、古い洋館の残る「開平」や上海のはずれのド田舎、長い長い長江の最終地点「啓東」、去年訪れた「太倉」など、田舎町を中心に旅して回る。

そして、世界第3位の長さを誇る「東海大橋」、「ロシア航空母艦のテーマパーク」、「某中国映画に出てきた駅」「旧香港空港跡地」「長江河口」「太倉の観光化されていない水郷古鎮」など、パックツアーでは行かないようなマニアックな観光地(?)を見て回る。

手を上げたらどこでも乗れる田舎バス、バイクタクシー、白タク、など田舎を旅する交通手段をいろいろと知ることができた。宿も、一泊150元(2200円)以下のボロホテル、旅館を利用した。一番安かったのは、開平の60元。

合肥へ行く前日、母親が日本から飛行機で上海にやってきた。翌日、列車で一緒に合肥へ。友達の母さんが、「来年はぜひ家族でいらっしゃい」と言っていたので、途中で合流するように計画しておいた。母は、合肥に2泊して、上海に2泊した後、帰って行った。

帰りの船に乗り遅れてしまい、一週間足止めを食らう。しかし、そのおかげで大連に行って、文通友達に再会できた。またも、おしゃべりで大いに盛り上がった。

  
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January 11, 2010

2009年11月 公開講座 その1

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■2009,11,28(土)15:30〜

■テーマ;「なぜ邪馬台国は九州か?」

■講 師;井上 和人さん NPO東アジア交流学院

先月のフィールドワークは、講師の体調不良の為、急遽延期とさせていただいた。連絡が不十分で、当日集合場所に来ていただいた方もいて大変申し訳ありませんでした。

今月、11月の公開講座は、各地で行われたシンポジウムの報告会である。シンポジウムでの発表をまとめ検証して見たいと考える。

吉野ヶ里遺跡公園で開催された「なぜ邪馬台国は九州か?」について、当学院の井上和人さんに報告をしていただいた。

■要 旨;その1

1、「魏志倭人伝」を読む限り北部九州のことしか書かれていない。

2、伊都国までは直線的「至る・・・」ところが伊都国からは放射状・・・書き方が違っている。

3、剣・玉・鏡の出土量が畿内に比較して断然多い。三種の神器(宝器)が天皇家=大和王権のシンボルとすれば九州からのものが採用された。

4、環濠集落が圧倒的に九州に多い。吉野ヶ里や平塚川添遺跡など・・・

5、地理的・政治的状況

@九州説では

�揚子江流域に弥生文化の源流があるとされるが、弥生文化の担い手が対馬海流に乗って朝鮮半島から、朝鮮半島南部、北部九州、出雲などに漂着した可能性が高い。これらの地域が先進地域であり、その後も主導的な役割を果たした地域である。

�渡来人によって朝鮮半島や中国から文化や技術が東の果ての日本にやって来るとき、まず九州から入り東に向かって広がっていく。2〜3世紀は、九州が先進地域で機内は後進地域であった。

※畿内説では

�2〜3世紀は、中国の内乱、倭国大乱を避けるために都を奈良盆地の纒向にした。

�大和は、瀬戸内海に近く、交通の要所。人口も多く日本の中心であった。

�陳寿は、邪馬台国と初期大和政権を同一と考えていた。呉、蜀への戦略的理由から魏の同盟国邪馬台国を誇張して表現して、九州の彼方に巨大国家があったと記した。

6、国家統一の状況

@九州説では

�日本の全国統一は5世紀以降であり、3世紀の邪馬台国の時代は地域分権国家であった。この時代に北九州から南九州・出雲・吉備・畿内・東海まで広範囲の地域を大和王権のような権力が存在したとは考えにくい。

�弥生時代の祭祀用の銅鐸が大和政権成立後一切登場しない。九州の祭器だった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場し、剣は天皇家の三種の神器になっている。邪馬台国が近畿に生まれ、邪馬台国が大和王権に発展したというなら、どうして銅鐸が消えてしまったのか。邪馬台国が九州から畿内に入り、大和王権を樹立して日本を統一したと考えるのが妥当である。

�栄えていた邪馬台国が征服されたという伝説は存在しない。邪馬台国が突如として消え、大和王権が全国統一の勢いを強めてくる。ヤマトという名称は九州起源ということも考えられ国家統一した勢力が九州から畿内に来て、大和王権を樹立した。

�九州にあった国が、中国から見た邪馬台国であった。応神天皇と卑弥呼を混同している。また、神功皇后と卑弥呼を同一とみなし、日本書紀は卑弥呼を神功皇后とほのめかしている。

※畿内説では

�倭国大乱は九州内での紛争ではなく、全国的な内乱であった。3世紀には、中部日本と西日本を統一する大和王権が誕生した。女王国の誕生は、この広い地域を支配する国家の誕生だった。

�邪馬台国は、29カ国が従属しており、すでに中央集権的な国家であった。その勢力の一部が大和王権に移行した。

7、倭国大乱

※畿内説では

�倭国大乱は、九州内での紛争ではなく畿内と北部九州の二大勢力の戦いであった。広範囲に(九州・瀬戸内・畿内)に広がる高地性集落が倭国大乱の証明である。

�倭国では、大きな戦乱が3回あった。一回目は2世紀後半の倭国大乱。二回目は3世紀中ごろの邪馬台国と狗奴国との紛争。三回目は卑弥呼の死後の倭国内の戦乱である。

@九州説では

�大乱は金印国家奴国と邪馬台国の争いであった。大乱を境に墓制が甕棺から箱式石棺に変化した。鉄製武器が博多湾沿岸の奴国から内陸の筑紫平野(朝倉・甘木)に移動した。

�奴国の後ろ盾の漢が弱体化した時、魏の支持を受けた邪馬台国が奴国から政権を奪った。奴国の金印はこの戦乱の時、志賀島に埋められた。

�倭国大乱は九州内での戦乱であり、その後30カ国の原始国家が生まれ邪馬台国が君臨する時代となった。この時代にはまだ中部や西日本を統一する勢力はなかった。

8、女王卑弥呼

@九州説では

�卑弥呼のことを神格化し、伝説化したのが天照大御神である。卑弥呼も天照大御神も太陽神である。卑弥呼が亡くなった二年後に皆既日食がおきた。それが「天岩戸伝説」となった。

�神武天皇が在位していた時代は280〜290年頃、神武天皇から五代前の天照大御神の時代は230〜240年頃、卑弥呼が魏に使いを送ったのは239年頃である。卑弥呼と天照大御神の時代が重なる。

�吉野ヶ里遺跡で弥生時代中期の巨大墳丘墓が確認された。1世紀の九州で大きな墳丘墓が確認されたとすれば、3世紀の邪馬台国時代に計100余歩の卑弥呼の墓として巨大な墳丘墓が存在してもおかしくない。

※畿内説では

�日本書紀の神功皇后記では、卑弥呼は大陸とも交渉した偉大な女王ということから、卑弥呼は神功皇后のことであり、邪馬台国は大和である。

�古事記記載の崇神天皇の没年干支(丑寅)をもとにすると、崇神天皇は258年に亡くなった。卑弥呼が亡くなったのは248年頃と考えられるので、ほぼ崇神天皇の時代が卑弥呼の時代である。崇神天皇の時代の巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)こそ卑弥呼である。倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が卑弥呼の墓である。

9、卑弥呼の鏡

@九州説では

�卑弥呼のもらった100枚の鏡は、当時、中国に存在していた内行花文鏡・方格規矩鏡の後漢鏡である。これらの後漢鏡は、中国でも出土し北九州の墳墓から多く出土する。

�日本だけで500枚以上出土しながら、中国では1枚も出土しない三角縁神獣鏡は、日本で作られたものであり、卑弥呼の鏡ではあり得ない。

※畿内説では

�卑弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡である。卑弥呼の時代の「景初三年」の銘が入ったものが出土している。三角縁神獣鏡は畿内から多く出土する。関東や九州からも出土するがそれは卑弥呼の時代に、大和の勢力が関東や九州にも及んでいたとみるべきである。

�三角縁神獣鏡が中国では1枚も出土しないのは、卑弥呼のための特注品だからである。

�奈良県の3世紀の墓、黒塚古墳から33枚の三角縁神獣鏡が出土した。邪馬台国が畿内にあったということを裏付けるものである。

�これまでに出土している三角縁神獣鏡は500面を超える。当時は5000面以上あったと考えられる。卑弥呼が魏からもらった鏡を真似て国産品が製造されたからである。

全体的に九州説と畿内説の並記が基本で、「なぜ邪馬台国は九州か」と言った具体的な説に欠けるような感じがする。

4世紀から5世紀の九州王朝=倭国の事跡を考えれば、邪馬台国が畿内ではなく九州にしか存在し得ないことがハッキリするのではと考える。

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October 16, 2009

2009年9月 公開講座

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■2009,9,27(日)

■テーマ;「印鑰(いんやく)神社の秘密」PART1

=印と鍵を祀る神社の謎を考える=

■講 師;田所 寛和 NPO東アジア交流学院

8月公開講座は、「中国・遼寧省近現代交流史の旅」参加者による報告会となった。旅で出会った様々な人や出来事を、それぞれが振り返ってのフリートーキングを行った。Oさんからは、生まれ育った大連での思い出を同行した息子さんに伝えられたことで大満足の旅であったとの感想を述べられた。

参加されなっかた会員からも、偽満州国時代の史跡など一般的なツアーでは行けない場所を訪れたこの旅にぜひ行きたかったとの感想が聞かれた。また、旅の意義を再確認して解散した。

9月公開講座は、久しぶりの古代史に焦点を当ててみた。

■要 旨;その1

1、なぜ印鑰(いんやく)神社について調査しようと考えたのか?

沈約が編纂した「宋書」に、昇明二年(478年)倭王・武が南朝劉宋の順帝に送った上表文がある。「・・・竊かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸な仮授して、以って忠節を勧む」これを、吉留路樹氏は倭王・武は政府を開いていて、臣下には官位を仮に授けていると解釈した。

私は官位を授けた証はないのかと考え、それが印と鍵ではないだろうかと推察した。印と鍵を祀る神社として印鑰神社が挙げられる。印鑰神社とは、国司の印と正倉の鍵を祀った神社だといわれている。が、これだと全国にあるはずだが・・・なぜか北部九州に集中して存在する。

この印鑰神社に何か手がかりになるものがあるのでは、と考えた。

2、倭の五王とは?

5世紀元から6世紀初頭にかけて、倭の五人の王が次々と中国南朝に使者を送ったことが中国の史書に書かれている。讃・珍・済・輿・武の五人である。かつてはこの五人を大和の天皇に何とか当てはめようと試みられたが、現在の定説では最後の武だけは雄略天皇であると考えられている。が、この五人は倭国の王であって大和の天皇ではない。

あくまで九州王朝・倭国の王である。

3、金印「漢委奴國王」とは?

「後漢書」東夷伝に、「建武中元二年(A,D57年)倭の奴国が使者を後漢の都・洛陽(ルオヤン)に送り、貢ぎ物を持ってあいさつにきた。使者は自分を大夫(たいふ=大臣)と名のった。奴国は倭の最南端にある。漢の光武帝は奴国にその証に、金印と組みひもを与えた。」とある。

1784年、江戸時代に福岡県志賀島で発見された金印が、この時奴国に与えられた金印だといわれている。「漢委奴國王」である。これも、一般的には「かんのわのなのこくおう」と読まれているが、「かんのいどこくおう」が正しいと考える。漢の皇帝が倭国の中の一地方の国王に金印を与えることは考えられない。

金印がどのように発見されたのか?これも定説があるが、福岡市教育委員会の塩屋勝利氏が発見場所の探索をされたが、結局は発見された場所は不明のままである。現在の金印公園では、発見された状況とはかけ離れている。

だが、志賀島の志賀海神社にも印鑰神社が合祀されている。この神社は元々金印公園の場所にあったのではないかと考える。そのように考えると、発見された金印はこの印鑰神社に御神体として祀られていた可能性が出てくる。

このことは、1998年「古代史再発見 第3回 独創の古代 未来への視点」で古田武彦氏も指摘されている。

 

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August 17, 2009

2009年7月 公開講座 その1

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■2009,7,26(日)

■テーマ;「偽満州国建国を考える」PART2 =偽満州国の実像を考察する=

●「満州帝国=偽満州国」とは何であったのか?

■講 師;梶村 晃さん NPO東アジア交流学院 九州・沖縄平和教育研究所

7月の公開講座は、先月6月の公開講座に引き続き「偽満州国建国を考える」をテーマに、梶村晃さんを招いて「満州帝国=偽満州国」とは何であったのか?という偽満州国の実像を考察してみた。

●要 旨;その1

一、満州侵略(侵攻)の目的

・満州は、「10万の生霊と20億の国幣(国庫金)によって購われた大地である。

生霊と国幣とは、日清・日露戦争での戦死者と軍事費にあたる。金子堅太郎(福岡)はハーバード大学でルーズベルトと同級生であった。その関係を利用して多額の国債をアメリカに引き受けてもらった。

だから、満州の権益を守るために満蒙を特殊地域として中国本土から分離し、そこに日本の排他的権益を認めさせる必要があった。そのため、第一次大戦中の1915年に袁世凱政権に対していわゆる「21カ条の要求」をおこなっている。

この要求をきっかけに、対日感情が悪化し1919年「五・四運動」以後、急速に中国民族運動、国家統合、国権回復が台頭してきた。特に、日本を満蒙から排除、排日する動きが活発化していく。

さらに、軍閥政治家で満州の統治者であった張作霖が、1928年に関東軍参謀の河本大作大佐の策謀で奉天近くの皇姑站で列車ごと爆破された。張は重体となり自動車で私邸に担ぎ込まれたが、まもなく死亡した。

このとき息子の張学良は側近たちの支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、張作霖の支配地域を継承した。その後、張学良は対立する国民政府に合流して、晴天白日旗を揚げる易幟(えきし)をおこなった。このことで蒋介石から東北三省保安総司令官に任命され、独立状態を保つことに成功する。

・満蒙領有と国家改造

石原莞爾による「最終戦争論」が唱えられ、日米決戦に備え「総力戦」遂行体制構築が国家的課題となった。今後、軍隊だけでなく産業、物資、士気を投入するための国家改造を必要とした。

また、共産主義の浸透と武力侵攻というソ連の脅威に対抗する必要に迫られた。さらに、満蒙領有により朝鮮統治の安全が図られるというもくろみがあった。当時、上海には李承晩(イ・スンマン)の大韓民国臨時政府、吉林省には金日成(キム・イルソン)の朝鮮義勇軍が活動していた。

二、「満州」領有か独立国樹立か

関東軍は、占領した後日本の直接支配による植民地としての領有を考えていた。だが、政府は国際関係の中で独立国としての国家体制構築を目指した。そして、1932年3月9日清朝最後の溥儀(プーイ)が執政として、満州国が成立する。

しかし、これを嫌った溥儀が帝政をとなえ1934年3月1日、三度目の皇帝の地位に就くことになる。したがって、二年間は共和制だったことになる。「満州国」政府組織法でも、第4条に執政は全人民これを推挙す。とある。

それに対して満州帝国組織法では、第1条に満州帝国は皇帝これを統治す。帝位の継承は別に定むる所に依る。第2条、皇帝の尊厳は侵さるることなし。とあり、大日本帝国憲法とほぼ同じ内容になっている。

三、国際的な規制の存在と動き

ベルサイユ・ワシントン体制には、9カ国条約、4カ国条約、パリ不戦条約その他などがあり、日本の中国進出を牽制していた。だが当時、世界恐慌による経済恐慌からアメリカ、イギリスは脱出できずにいた。また、ソ連は5カ年計画達成に専念して、中立不干渉声明を出していた。

東北部を事実上支配していた張学良は、北平(北京)で病気療養中(アヘン治療)で不在だった。関東軍が満州への武力侵攻を決め,軍隊を終結させているときもいつもの軍事演習だと考え、なんら対策を講じていない。柳条湖事件が勃発すると、不抵抗を命じている。

四、国家形態

1932年9月15日調印された日満議定書により、日本は満州国を正式承認した。民族自決を標榜し独立国であるとし、共和制を採っている。当初の政府組織法と中華民国約法(1914年)とは類似性がある。また、帝政になった後の満州帝国組織法と大日本帝国憲法にはそれ以上の類似性がある。

1937年11月29日イタリアが、1938年5月12日ドイツが満州帝国を承認している。それが、1940年の「日・独・伊三国軍事同盟」へと発展していく一つのきっかけとなる。

 

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July 25, 2009

2009年6月 公開講座 その2

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■2009,6,28(日)

■テーマ;「偽満州国建国を考える」PART2

=「9・18事変(柳条湖事件)」の真実を検証する=

■講 師;梶村 晃さん NPO東アジア交流学院 九州・沖縄平和教育研究所

■場 所;NPO東アジア交流学院 久留米事務所

■要 旨;その2

三、関東軍(山海関の東の地域を担当)=満州軍

 ・満鉄鉄道守備隊15,000人が、終戦時には1,000,000人!・・・?へ

 ・関東軍特別演習(ノモンハン事件)参謀;辻正信、服部卓志郎、長勇

四、政治機構

 ・1932年3月建国時の満州帝国政府組織

 ・満州帝国組織法=大日本帝国憲法

五、産業(重工業・農業)と移民(155万人の日本人)

 ・満鉄;多角経営の巨大コンツェルン

 ・鮎川義介;日産財閥 岸信介;通産大臣兼副首相(児玉嘉夫は部下)

 ・農業;開拓団27万人=武装農民(長野県・熊本県)死亡78,500人

 ・満蒙開拓青少年義勇軍

六、事件・用語・都市(地名)

 1、ノモンハン事件、731部隊、平頂山事件、ソ満国境、文化政策

 2、引き上げ、残留、万人抗、強制労働(日本へは4万人)

 3、新京(長春)、奉天(瀋陽)、旅順、大連、ハルピン、ハイラル

※後半(その2)は、要項にとどめている。詳しくは、次回7月26日の公開講座で・・・

  
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July 12, 2009

2009年6月 公開講座 その1

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■2009,6,28(日)

■テーマ;「偽満州国建国を考える」PART1

=9・18事件(柳条湖事件)の実態を考察する=

■講 師;梶村 晃さん NPO法人東アジア交流学院 九州・沖縄平和教育研究所

■場 所;NPO東アジア交流学院 久留米事務所

先月の公開講座は、高尾 翠さんを招いて「天皇の軍隊と平頂山事件」とのテーマで、平頂山事件の実相を検証しました。高尾さんの父親が南満州鉄道の職員であり、自らも中国・大連で生まれ育った中でこの事件に関心を持ち、事件の真相を究明されています。

今回の公開講座はその研究を受けて、かつて大日本帝国が中国に対してどのように侵略をしていったのかを、梶村さんに講師として来ていただき追求して見ました。

■要 旨;

●「満州帝国=偽満州国」とは?

一、満州事変(9・18事変) 1931年9月18日

1931年9月18日22時20分頃、奉天(現在の瀋陽)駅の北近郊約8kmの柳条湖で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された。その当時、満鉄守備の名目で配備されていた日本の関東軍は、これは中国側の仕業であるとして、ただちに軍隊を出動させ、隊内に秘匿されていた24センチ榴弾砲を奉天城や北大営の中国軍陣地に打ち込むなど猛攻撃を加えた。これがいわゆる柳条湖事件といわれるもので、9・18事変(満州事変)の始まりである。

日本国内では、19日に閣議が開かれ事件不拡大の方針が決定され、同日夕刻には関東軍司令部には不拡大の制止命令が入った。しかし、関東軍は21日には、吉林に出兵し奉天方面をわざと手薄にして朝鮮軍の出動を誘った。本庄繁関東軍司令官は18日事件直後に、林鉄十郎朝鮮軍司令官に来援の要請をしている。

関東軍は吉林出兵と同時に、さらに朝鮮軍の派遣を要請している。林司令官は、中央から越境差止めの命令があったにもかかわらず、21日ついに独断で朝鮮軍を越境出兵させた。そのことで彼は、越境将軍と呼ばれることになった。

22日の閣議では、これらの現地の状況を追認し、正式に朝鮮軍の派遣を決め、戦費の支出を決定した。政府が当初不拡大方針を決めておきながら、現地の軍部の独断的な行動に引きずられていったことは、その後の日本を戦争拡大への道を歩かせることになった。

であるから、正式な宣戦布告をしないまま実質的な戦争状態が続いていくことになったが、戦争となると国際法上不利益になると考え、満州事変と呼ばれることになったのである。

二、満州国建国 1932年3月1日(建国宣言)

1932年3月9日、溥儀(プーイ)執政に就任。溥儀は非常に不満であった。そのため1934年3月1日、皇帝に即位する。溥儀にとっては、三度目の皇帝即位になる。彼は、1945年8月まで名目上の満州国皇帝となった。

建国した後、策定された満州帝国組織法(憲法ではない)を見てみると、大日本帝国憲法に酷似しているのがわかる。実際に満州国は、政府の要人の半数以上を日本人が占めるというまさに日本の傀儡(カイライ)国家であった。

その後、日本の資本は続々とこの国に進出し、植民地的支配の本性を露骨に示した。

柳条湖事件以来、東北地方の各都市を占領した日本軍に対し張学良は、不抵抗の方針をとり、一部に抗戦はあったものの撤退を続けていた。それはここで抗日に戦力を消耗させると、国民党政府における張学良自身の地位が失せる恐れがあると考えたからである。

一方、中国を代表する蒋介石は、中国共産軍とまさに死闘を演じており、日本との戦闘は望まず外交的に解決しようとこの問題を国際連盟に提訴した。日本はこの提訴に対して当初、日本軍の出動は治安維持のためである、目的が達成されればすぐに撤兵するとして、国際連盟の了解を取り付けた。

しかし、各国は、日本の戦域が拡大するにしたがい不信感をつのらせ、リットン調査団の派遣を決定した。調査団は、翌年(1932年)2月から6月までの間に、「満州」をはじめ中国各地や日本を訪れ、報告書を9月の国際連盟に提出した。

リットン調査団が派遣される決定が行われる前に、「満州」に対する世界の注目をそらすため上海事変(1932年1月)を起こしたりした。そして、清国廃帝となった宣統帝溥儀を担ぎ出し「満州国」建国となったのである。

リットン調査団報告書は、国際連盟で審議されることになり、それは日本が国際連盟を脱退するきっかけとなり、国際的孤立化、日独伊軍事同盟、そしてファシズム体制へ突入していくことになった。

※「戦争と平和を考える暦」柳条湖事件;九州・沖縄平和教育研究所 参照

次回の公開講座(7月26日)では、さらに「満州国」の実態に迫ってみます。

 

 

 

 

 

 

 

  
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July 02, 2009

2009年度 第6回定期総会

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■2009,4,26(日) 10:00〜

■NPO法人東アジア交流学院 2009年度 第6回定期総会

■場所;NPO法人東アジア交流学院 久留米事務所

4月26日(日)、久留米事務所において、第6回定期総会を開催した。今回は、NPO法人(特定非営利活動法人)東アジア交流学院として五周年にあたる記念すべき年度にあたる。

国際交流を中心に、古代史や近現代史の公開講座、中国語や韓国語の語学教室を開催して、ある程度の実績と経営のノウハウを持つことができたと考える。また、会員も久留米を中心に佐賀県や熊本県にも広がりを見せている。

総会は、2008年度の事業の総括と決算、2009年度の事業計画と予算をそれぞれ審議し可決した。そのなかで、今年度の五周年記念事業として、2月の理事会で決定していた福岡事務所の開設が大きな議題となった。

事務所の維持費など、NPO法人としての手に余るのではないかとの不安な意見もあったが、将来において東アジア域内との交流の拠点を確保することと、古代史のシンポジウム開催に向けた準備のためには福岡に事務所を構えて取り組みを進めていくことで承認を得た。

総会後は、恒例の昼食懇親会を開いて今年度の抱負を懇談した。

 

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July 01, 2009

2009年5月 公開講座

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■2009,5,24(日)

■テーマ;「天皇の軍隊と平頂山事件」

 ===平頂山事件の真相を検証する===

■講 師;高尾 翠さん 日中友好協会久留米・筑後支部

2009年度の第1回公開講座は、日本と中国の近現代史に焦点を当てた。第2回、第3回と中国東北部との関係史が続く予定である。そして、8月には現地を訪ねてのフィールドワークを計画している。

高尾さんは、1937年「日中戦争」勃発の年に、「満州(現在の中国東北部)」で、生まれられた。彼女の父は、「満鉄」の職員であった。・・・敗戦の翌年、荷物の一部だけを持って帰国されている。帰国以来、自分が生まれた国・「満州」と日本の国のことを考え続けられている方である。

■要 旨;

●「平頂山事件」とは

1932年9月16日、中国東北地方撫順市の南、約4�にある平頂山集落で住民大量虐殺事件が起きた。満州を事実上日本の植民地とする「日満議定書」が締結された翌日、これを不満とする「反満抗日軍」が撫順炭鉱を襲撃し、炭鉱事務所に放火し、日本人11人が死傷した。

撫順防備を任務としていた守備隊は、この襲撃への報復として、村民を一カ所に集め、数台の機関銃で一斉射撃により殺害し、銃剣でとどめを刺し、遺体にガソリンを撒いて焼却し、最後には崖に爆薬を仕掛けて遺体を埋めて隠滅をはかり、さらに一人の脱出者も出さないための対策として、全部の家を焼却し一村を消去した、とする事件である。

この事件は、問いただされることもなく歴史から消えるはずであった。殺されたのは、老人や子ども、母親、炭鉱労働者などの住民であり、戦争中でもない真昼に起きた出来事である。

●事件を引き起こしたのは

特定の個人だったのか、統帥権を掌る関東軍の独走だったのか、今もって明らかではない。彼らはなぜ、この出来事を跡形もなく消したのだろう。その社会的根拠は何なのか。国の終演後も満州は、幾重もの課題をはらみ、満州を生きたものたちに「五族協和・王道楽土」(日・漢・朝・満・蒙の五民族が協和する理想国)構築の論理を、真理と信じた理由を問い返してくる。

半世紀前、アカシアの木の下で少女の瞳に映っていた日本の支配の実態を、自分に納得のできる形で整理したいと考えた。

 

 

 

 

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May 18, 2009

2009年3月フィールドワーク

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■2009,3,22(日)

■テーマ;「卑弥呼と神武が明かす古代」part2

===記紀に隠された古代の謎に迫る!===

■講 師;内倉武久 NPO東アジア交流学院 学院長

長らくブログの更新ができなかった。パソコンが壊れてしまったために、貴重な画像が取り出せなかったのである。フィールドワークの報告を楽しみにしてあった方には、大変申し訳なかった。ようやく・・・というか、何とか画像を取り出せたので、再開にこぎつけることができた。関係の方々には深く感謝致します。

2月の公開講座を受けて、神武のゆかりの地と考えられる前原市を訪れた。ここは、以前にもフィールドワークを敢行したところである。フィールドワークも何度となくくり返し、当会の理事長である内倉氏の「卑弥呼と神武が明かす古代」がミネルヴァ書房から発刊されるにいたったのである。

当日は、久留米事務所に8:30に集合して2台の車に分乗し、まずは福岡市西区の飯石(いいし)神社へと向かった。

 

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March 25, 2009

2009年2月 公開講座 その1

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■2009,2,22(日)

■テーマ;「卑弥呼と神武が明かす古代」part1

===記紀に隠された古代の謎に迫る===

■講 師;内倉 武久 NPO法人東アジア交流学院・学院長

2月の公開講座は、当学院長が昨年出版された「卑弥呼と神武が明かす古代」から、特に伊都国にまつわる古代史の謎に迫ってみた。一般的に志賀島から発見されたとされる金印について、その読み方の検証から始まった。

■要 旨;その1

志賀島から発見された金印。江戸時代に近くの畑に水を引くための水路を作る作業中に、百姓甚平ら2人が発見したとされる。発見した彼らが、黒田藩の役所に届け出たことで現在まで保存されることとなった。

金印は、中国の史書「漢書地理史」に倭国王に下賜した(A.D57)ことが記載されていることから、その時の金印であるとされている。したがって、「漢委奴國王」は「かんのわのなのこうおう」と読むのが一般的である。福岡市博物館の展示にも、そのように説明されている。

しかし、それは間違いである。

金印は、天子の子=侯王に下賜されるものであるから、倭国の中の一地方王である奴国に下賜されるのはおかしい。漢王朝の直接柵封を受けた国に下賜されるべきものである。当然、日本列島を代表する国であると漢王朝に認められなければならない。

「漢委奴國王」の漢は、漢王朝の漢である。委は、人偏が省略された倭であるとして、日本の古代の呼び名である「ワ=wa」と読んでいる。そして、奴は福岡市の近くを那の津と言っていたことから、三国志魏志倭人伝に出てくる奴国を当てている。この考えは間違っていると言える。

倭という字は、「わ」とは読めない字である。漢の時代の発音と意味を解説した「説文解字」には、漢の時代の古音が表されている。それには、倭は「ヰ=wi」と表記されている。同類の書である11世紀北宋の「集韻」によれば、中古音では「ゥワ=uwa」、呉音では「ワ=wa」となっている。また、奴は「ド=do」である。ただし、呉音では「ヌ=na」または「ナ=na」と発音する。

したがって金印の読み方は、漢王朝時代のものであるから、当然漢時代の発音で読みべきである。そしてなおかつ、日本列島を代表する国の王に送られたものであるから、「漢委奴(ヰド=wido)國王」と読まねばならない。

そのように考えると、かつて怡土郡(前原市)にあった伊都国の王に下賜されたと考えた方が自然である。金印は、当時日本列島を代表した伊都国王がもらったものである。

 

 

 

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March 05, 2009

2009年1月 公開講座 その2

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■2009,1.25(日)

■テーマ;「高良山周辺の伝承」

===高良山山麓を散策して・・・===

■講 師;古田 茂さん NPO法人東アジア交流学院

■要 旨;その2

●高良山神籠石(こうらさんこうごいし)

神籠石とは?

神籠石の初見は、中世に描かれたとされる「絹本著色高良大社縁起」の山内図に「神籠石」の名が見える。さらに、中世頃に編纂された「高良玉垂宮神秘書」は、高良大社参道にある磐座(いわくら)=馬蹄石を神籠石と云い、列石遺構については「八葉の石畳」と紹介している。江戸時代には「高良山八葉石記」や、久留米藩士矢野一貞が著した「筑後将士軍談」などに紹介されている。

1898年(明治31年)、小林庄二郎により高良山の列石遺構を神籠石として紹介し、北部九州に同様の列石遺構が存在したことにより歴史学者の注目するところとなり、「神籠石」が遺跡の名称となり、以後学術用語として使用されるようになった。

1900年(明治33年)に八木壮三郎が他の地域の神籠石を調査し、山城として紹介した。また、1902年(明治35年)に喜田貞吉は、列石の状況を見て山城説を否定し、神域であると発表し、学会において山城説と神域説の神籠石論争が始まった。

1962年(昭和37年)に佐賀県おつぼ山神籠石で初めて発掘調査が実施され、その結果、山城として報告され神籠石論争の終焉を迎えつつあるが、学会においては未だ「神籠石」の名称をなくすまでのは至っていない。

※「歴史散歩 20」 発行;久留米市教育委員会より 

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February 09, 2009

2009年1月 公開講座 その1

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■2009,1,24(土)15:30〜

■テーマ;「久留米・高良山周辺の伝承」

===高良山山麓を散策して見えてきたもの===

■講 師;古田 茂さん NPO法人東アジア交流学院

前回の11月公開講座は、日野好子さん(漢方薬剤師)をお招きして、「北京は自転車に乗って」その後と題して、幼い子どもさん3人を連れての北京留学とその後を語っていただきました。

今でこそオリンピックが開催され、近代的な都市に生まれ変わっている北京であるが、10数年前に幼い子連れの北京留学は想像を超えた大変なものであったことを、改めて理解することができた貴重な講座でした。

さて、2009年最初の1月公開講座は、当NPO法人東アジア交流学院の古田さんに「久留米・高良山周辺の伝承」と題して、高良山山麓を散策しながら考察された私たちの知らない高良山を語っていただいた。

■要 旨;その1

高良山がある久留米は、筑後の国の中心地である。かつては筑紫と呼ばれていたところを、筑前国と筑後国に分けられたものである。本来このような分国は、大河や山の稜線によって分けられることが多いが、筑後国は九州一の大河筑後川が流れているにもかかわらず、筑後川の右岸に大きく張り出した形で国境が決められている。現在の小郡市、大刀洗町は筑後国に属している。

このことが何を物語っているのかはわからないが、不思議に考えさせるものがある。今年度フィールドワークで確認した小郡官衙遺跡群は郡衙(ぐんが)とされているが、規模の上でも筑後国府に劣らないものであり、そのような施設が筑後川をはさんで両岸に設置されていることをどのように説明できるか今後の課題である。

高良山は、別名「高牟礼(たかむれ)山」「不濡(ぬれせぬ)山」と呼ばれている。高牟礼の牟礼は、朝鮮語のムレから来ていることは間違いないだろう。高良山にある高良大社は、筑後一の宮として筑後の守り神の位置づけが成されている。また、九州総社として百年に一度の大祭が行われる神社である。

高良大社の位置は、西へと流れる筑後川が南の有明海に向けて大きく曲がるところに位置している。西に古代の道路である西海道が南北に通り、今の宮ノ陣橋付近高良川の合流する場所に「宮地の渡し」があったと推定されている。この南東すぐの場所に筑後国府が設置されている。

筑後国府遺跡は、昨年度のフィールドワークで確認したように、前身官衙(7世紀中頃)を入れると4回、国府となってからも3回移転し、第一期(7世紀末)から第四期(12世紀後半)までの遺構が確認されている全国でも唯一の国府遺跡である。

水運の点から見ても、有明海から筑後川を遡行し筑後国府を経由して宝満川を遡れば、太宰府の南側にたどり着く。太宰府からは、御笠川を下れば博多湾に出ることができる。また、筑後川をそのまま遡れば、杷木神籠石のある杷木まで行くことができる。もちろん、高良山にも山城として考えられている高良山神籠石がある。

陸路を考えても、小郡から夜須町を経由して冷や水峠を越え飯塚に出れば、あとは遠賀川を下って玄界灘に至る。また、飯塚から香春町を経由して行橋に至れば、関門海峡を通らずに瀬戸内海へ抜けることができる。実際に高良山からは、有明海から筑紫平野を囲む全ての山々を望むことができる。

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November 28, 2008

2008年11月 公開講座 その2

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■2008,11,22(日)

■テーマ;「北京は自転車に乗って」その後

===子連れ北京留学の子どもたちは、今===

■講 師;日野好子さん 元日野百草堂店主

■要 旨;その2

●その中華料理のレストランでの出会いは・・・

私がトイレに行くと、後ろで日本語が聞こえてきた。「あら、ここのトイレは壊れているわね。」とても流ちょうな日本語だけど、明らかに日本人ではないことが判った。だから、久しぶりの日本語であったが、そこはトイレの中でもあるしそのまま席に戻った。

食事のあと北京観光のツアーが続き、「あなた日本人でしょう?」と彼女が声を掛けてきた。日本に留学したという彼女は、子連れの日本人が珍しくまた懐かしくもあったのだろう。そして、私が何の目的で北京に来たのか、根掘り葉掘り聞いてくるのだ。

さらに、私が住まいのことなどで、留学を躊躇していることを知ると。「それなら私の家に住むといいわ。」と、提案してきたのだった。「・・・。」あまりの唐突な提案に、思わず言葉を失った。そして、「私、騙されてる。」と思った。初めてあった見ず知らずの、しかも日本人の私に、なぜここまで親切なのだろうと・・・

中略

最後に、ずっと思っていた素朴な疑問を彼女に尋ねた。「なぜ、あなたはこんなに親切にしてくれるの?」と。「私は日本に留学していたときに、日本人にとてもやさしく親切にしてもらったのよ。もちろん、親切な人ばかりじゃなかったわ。でも、やさしくお世話してもらった人には、その恩を返せないから、中国に留学しようとしている日本人のあなたにそれを返したいのよ。今度は私が親切にする番よ。」

・・・その時、彼女を信じてみようと思った。

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November 25, 2008

2008年11月 公開講座 その1

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■2008,11,22(土)

■テーマ;「北京は自転車に乗って」その後

===子連れ留学の子どもたちは、今===

■講 師;日野好子さん 元日野百草堂店主

10月の公開講座は、「太宰府の防御施設・小郡官衙遺跡群」PART2というテーマでフィールドワークを実施して、小郡官衙遺跡を中心に「太保府」である可能性を検証した。関屋土塁の防御施設から、小郡の「太保府」の位置づけを確認することができたフィールドワークであったと考える。

今回の11月公開講座は、東アジア交流学院にとっては久しぶりに日野好子さんを招いて、子連れ北京留学を語っていただくことになった。前回、といっても7〜8年前になるが、会員も新しい方もおいでなので、北京留学のいきさつとその後の子どもたちの近況を尋ねてみようという企画である。

手元に1999年発行の一冊の本がある。題名は「北京は自転車に乗って」だ。三人の子どもたちと行った中国留学。とのサブタイトルがある。本の帯には、「北京で過ごした三年間の泣き笑い。36歳、主婦の私が、3人の息子を連れて北京に留学することになった。どこに住めるの、子どもたちの学校は?言葉にも、北京の寒さにも負けず、ガンと闘い、自転車で走り回った痛快中国留学記。」とある。

何度聞いても、いや、読み返しても、よくぞ大変な留学生活を送られたものだと思うし、そのバイタリティに感心してしまう。そして、中国での出逢いのすばらしさを羨ましいとも思ってしまう。もちろん著者は、今回公開講座の講師をしていただく日野好子さんである。

今回、その全部は紹介できないので、一部を要旨として紹介するに留める。

■要 旨;その1

●はじめに

そのころ私は、夫の仕事の関係で西宮に住んでいた。末の息子が幼稚園に入学すると、夫は大阪中国語学院に二人分の入学申し込みをしてきた。

え?私も習うの?この語学の苦手な私が中国語を?しかも、もうじき36歳になろうとしているこの私が新しい語学を習う?でも、土曜日に家事をしなくて済むし、自由な自分の時間が持てるのは魅力だった。

しかし、そんな私に夫はもっと恐ろしいことを言った。「僕はあと一年ほどで、会社を辞めたい。・・・中国とどこか英語圏に二年ずつ留学したい。君は中国医学を勉強するといいよ。子どもたちはトリリンガルになれるしね。」

まさに晴天のへきれきであった。私が今から大学に行くっていうわけ?後頭部をガンと殴られた気分だった。

それでも大阪中国語学院に、通い始めることになった。そして、初めて北京に行ったのは、その年1993年の8月だった。下調べをかねて長男だけを連れて、北京語言大学に一ヶ月の短期留学をした。その時に、大学の売店に生理用のナプキン「ウィスパー」を見つけた。信じられないかも知れないが、その時に北京での留学生活ができると感じた。

それにもう一つ、留学生活だけでなく今でも付き合いのある李玉華(リユウファ)さんとの出逢いがあった。この出逢いがなければ、留学生活も途中でやめて帰国していただろうと思う。

それは、中華料理のレストランのトイレだった。

 

 

  
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November 11, 2008

2008年10月 公開講座(フィールドワーク)その4

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■2008,10,26(日)

■テーマ;「太宰府の防御施設・小郡官衙遺跡群」PART2

===筑後・小郡官衙遺跡群とは何かを検証する===

■講 師;井上 和人さん NPO法人東アジア交流学院

■場 所;下高橋官衙遺跡(大刀洗町)〜上岩田遺跡〜井上廃寺跡〜小郡官衙遺跡〜大保横枕環濠集落遺跡〜関屋土塁遺跡(基山町)

■関屋土塁遺跡・とうれぎ土塁遺跡

●佐賀県基山町

昼食後に三国丘陵から国道3号線に出て、JR基山駅をめざす。すぐに目的の場所に着いた。その場所は現在国道3号線とJR鹿児島本線が通っており、土塁(小水城)といっても基底部の部分だけが残されているだけである。

土塁の基底部となってたところには、基山町教育委員会による遺跡の説明板が設置されている。

関屋土塁は、基山(きざん)東麓を通る「城の山道」を経て、筑後・肥前国府へと至る主要道路の分岐に位置する。千塔山(せんどやま)丘陵を中心に東にある城の上(しろのうえ)丘陵との間に土塁はある。

関屋土塁ととうれぎ土塁は、663年に倭の百済(くだら・ペクチェ)救援軍が唐(とう・タン)・新羅(しらぎ・シルラ)の連合軍に敗北した白村江(はくすきのえ・パクソンガン)の戦いの後、665年に築かれた基肄(きい)城との関連のある施設とされる。

関屋土塁の西に位置する千塔山丘陵と向平原(むかいひらばる)丘陵の間にある「とうれぎ土塁」を経て基肄城へつながる防衛ラインを構成することから、「太宰府」を中心としたこの一帯の守りを目的として築かれたと考えられている。

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November 10, 2008

2008年10月 公開講座(フィールドワーク)その3

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■2008,10,26(日)

■テーマ;「太宰府の防御施設・小郡官衙遺跡群」PART2

===筑後・小郡官衙遺跡群とは何かを検証する===

■講 師;井上 和人さん NPO法人東アジア交流学院

■場 所;下高橋官衙遺跡(大刀洗町)〜上岩田遺跡〜井上廃寺跡〜小郡官衙遺跡〜大保横枕環濠集落遺跡〜関屋土塁遺跡(基山町)

■小郡官衙遺跡

●小郡市字向築地・字八反田

小郡官衙遺跡は7世紀末におかれた御原郡(みはらのこおり)の役所(郡庁)である。政務を司る「政庁」や税を保管する「正倉」のほか、様々な業務にかかわる建物が整然とした配置で建てられていた。

これらの建物は8世紀中頃になると、全て新しく立て直されている。新たな施設を区画するために掘られた溝から1,000本にも及ぶ多量の鉄鏃が出土していることから、この新たな施設は主に軍事的な役割を果たしていたと考えられている。

第2期の役所跡は、真北からおよそ45度西に傾いて整然と様々な建物が建てられている。一辺が約240m四方の規模と推定されている。規模の大きさもさることながら、なぜ中心軸が北東から南西になっているのかが気になる。北東には、少々ずれるが花立山(城山)を望むことができる。

花立山には、県指定文化財(史跡)の穴観音古墳がある。6世紀後半に築造された全長35mの前方後円墳で横穴石室の装飾古墳があり、周辺部からは小郡市側だけで約300基の円墳が見つかっている。この地域のいわゆる聖地と考えて良い場所である。

それに対して8世紀中頃に立て直された第3期の施設は、南北を中心軸としている。このことは明らかに基本的な思想が違うことを物語っている。ということは、この間に為政者の考え方に変化があったか、為政者そのものが代わったことが可能性として考えられる。

九州王朝の首都太宰府の中心軸は南北になっていることから、太宰府と小郡官衙遺跡(太保府であるとしたら)との間には同じ思想での築造ではなかったことが考えられる。このことも考慮しておく必要があるだろう。

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November 09, 2008

2008年10月 公開講座(フィールドワーク)その2

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■2008,10,26(日)

■テーマ;「太宰府の防御施設・小郡官衙遺跡群」PART2

===筑後・小郡官衙遺跡群とは何かを検証する===

■講 師;井上 和人さん NPO東アジア交流学院

■場 所;下高橋官衙遺跡(大刀洗町)〜上岩田遺跡〜井上廃寺跡〜小郡官衙遺跡〜大保横枕環濠集落遺跡〜関屋土塁遺跡(基山町)

■上岩田遺跡 

●小郡市上岩田字平塚 磐戸公園 国指定文化財(史跡)

この場所には7世紀後半頃、規則正しく建ち並ぶ堀立柱建物や、寺院の金堂と思われる基壇を持つ建物があったとされる。特に発掘調査により多数の瓦や硯、文字を記した土器、帯を飾る金具などが見つかっているのが特徴である。

天武7年(678年)に起こった筑紫国大地震で多くの建物に被害が出たことから、役所の機能は小郡官衙遺跡に、寺院は井上へと移転したと考えられている。

7世紀後半に設置されたとされる役所と寺院の機能を併せ持つ、上岩田遺跡を検証してみたい。

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November 08, 2008

2008年10月 公開講座(フィールドワーク)その1

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■2008,10,26(日)

■テーマ;「太宰府の防御施設・小郡官衙遺跡群」PART2

===筑後・小郡官衙遺跡群とは何かを検証する===

■講 師;井上 和人さん NPO法人東アジア交流学院

■場 所;下高橋官衙遺跡(大刀洗町)〜上岩田遺跡〜井上廃寺跡〜小郡官衙遺跡〜大保横枕環濠集落遺跡〜関屋土塁遺跡(基山町)

9月の公開講座では、再び郷土の古代史に焦点を当て、筑後小郡官衙遺跡群の考察を行った。そして、大和王権による地方の一官衙(郡庁)ではなく、九州王朝の首都太宰府を防御するための施設「太保府」である可能性があることがわかった。

三公のひとつ「太保」、天子の徳を安んじ保つ「太保府」の跡ではないか。ということは、有明海周辺に散らばる神籠石山城遺跡の分布から、また鉄鏃が1,000本も出土していることや「太宰府」との間に「関屋土塁」と呼ばれる小水城跡が存在することなどから、首都太宰府の防御施設としての存在を強く意識した。

そこで、今回のフィールドワークは、小郡官衙群を視察しそのことを検証するためのフィールドワークである。当日、NPO法人東アジア交流学院久留米事務所に集合して、まずは三井郡大刀洗町の下高橋官衙遺跡へ向かった。

※画像は、上岩田遺跡で発掘された「金堂」跡と見られる基壇である。

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Posted by easia at 19:16Comments(0)TrackBack(0)