March 16, 2010

印鑰神社の秘密 PART2

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■2009,2,28(日)

■テーマ;「印鑰(いんにゃく・いんやく)神社の秘密」 PART2

■講 師;田所寛和 NPO東アジア交流学院

1月の公開講座では、「中国・韓国の一人旅をして・・・」と題して、一人旅の極意を堀江真史さんに語っていただきました。公開講座後には、新年会を開催して親睦を深めました。

今回の公開講座では、9月のPART1に引き続き田所さんに倭国を支えた神籠石系山城と印鑰神社との関係を話していただきました。

■要 旨;

倭王・武が南朝劉宋の順帝に送った上表文には、「其の余は咸な仮授して、以って忠節を勧む」とあり、このことと印鑰神社が結びつくのではないかと考えている。

前回、指持節都督○○将軍倭国王である倭の五王が、中国の官制に倣って設置した官職(軍団)の臣下に下賜した印(軍団印)と鍵(兵糧倉)を祀る神社であるとの仮説を示した。北部九州に点在する神籠石系山城と朝鮮式山城が、倭国の軍事基地であり、軍団が置かれていたことを考察してみたいと考える。

1から4まで省略

5,其の余は咸仮授して、以て忠節を勧むとは?

上表文によれば、倭王の支配地域は200カ国を越える。倭国の首都である太宰府を中心に5方面を考えることを前回話したが、今回は、その根拠を話してみたいと思う。

筑前に4;大野城・鹿毛馬神籠石・怡土城(雷山神籠石)・阿志岐山城

筑後に3;久留米(高良山神籠石)・八女(女山神籠石)・杷木神籠石

豊前に2;御所ヶ谷神籠石・唐原神籠石

肥前に3;基肄城・帯隈山神籠石・おつぼ山神籠石

海北に2;対馬(金田城)・壱岐・・・?

阿志岐山城については、記録に残ってないので神籠石系山城になると考える。また、水城の守備は、御笠団が担当していたと考えられる。

6,神籠石系山城と軍団の根拠は?

7世紀の律令制下での軍団印が発見されている。御笠団印と遠賀団印である。いずれも一遍4,2�の方形鋳銅印である。

御笠団印は、1927年、太宰府市国分字堀田の桑畑で発見されている。また、遠賀団印は、1899年、御笠北高等小学校(現 太宰府市立水城小学校)の校舎用地造成時に発見されている。いずれも、筑前国府跡であるとされている。

「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」に、九州に18軍団、総数1万7,100人の記録がある。「太宰府官符」;光仁4年(813年)の記録を合わせると・・・

筑前国;4軍団(4,000人→2,000人) 御笠団・遠賀団は確認

筑後国;3軍団(3,000人→1,500人)

豊前国;2軍団(2,000人→1,000人)

豊後国;2軍団(1,600人→1,000人)

肥前国;3軍団(2,500人→1,500人)

肥後国;4軍団(4,000人→2,000人)

律令制の下での軍団配置は、倭国の軍団配置を踏襲したものであると考えられる。アジア太平洋戦争後にアメリカ軍の進駐が行われたが、旧日本軍の基地を接収して使用している。

律令制の軍団配置と朝鮮式山城、神籠石系山城の配置が見事に一致する。このことは、付近に軍団を配置すべき重要な拠点があるのではないだろうか。

倭国の首都である太宰府を守るために、大野城と阿志岐城がある。筑後国府の先行官衙の側には高良山神籠石がある。帯隈山神籠石のすぐ南には、弥生時代の国邑吉野ヶ里遺跡がある。

したがって、軍団の配置場所が特定され、近くに印鑰神社があることが証明できれば・・・と考える。

□参考資料

「倭国ここに在り」 吉留路樹 葦書房(1991,11)

「古代史発見 第三回独創の古代 未来への視点」 古田武彦(1998,10)

「太宰府は日本の首都だった」 内倉武久 ミネルヴァ書房(2000,6)

「真実の日本史」 川井田 豊 (2002,2)公開講座資料

「歴史の資料」福岡県版 福岡県中学校郷土教育研究会編 正進社(2007,4)

「城柵を繕い山川を断ち塞ぐ」 久留米市埋蔵文化財センター (2009,10)

 

 

 



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