August 11, 2008

2008年6月 公開講座

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■2008,6,25(日)10:00〜

■テーマ;「軍都廣島から軍都久留米へ!」

===軍都久留米がどのように誕生したのか===

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 NPO法人東アジア交流学院

6月公開講座は、前回に引き続き「日本の中国・朝鮮侵略を考える」PART2であったが、梶村さんの体調不良のためテーマを変更させていただいた。日中戦争では、私たちの郷土久留米の軍隊も参戦している経緯がある。特に「爆弾三勇士」または「肉弾三勇士」の話は、当時教科書にも載り全国的に有名である。

■要 旨;その1

●鎮台から師団への変遷

鎮台と師団の違いは、国内軍から外征軍への転換であるといえる。鎮台制は、日本国内の各地域を分担して防衛する。いわゆる治安維持のための軍隊である。それに対して師団制は、戦闘、支援、兵站の各部隊で構成され、独立して軍事行動を展開する。外国との戦争を前提とした軍隊になる。

1873年1月9日、6鎮台の軍管が設置される。�東京�仙台�名古屋�大阪�広島�熊本である。翌日の10日に徴兵令が公布された。1882年、山県有朋作の軍人勅諭が発布される。1886年、各鎮台の師団番号が決定される。同時に小学校(4年制)義務制となる。天皇への忠誠心を学ばせるのが目的である。

1888年、鎮台条例を廃止し、鎮台を師団に改変(師団条例)する。この時に近衛師団が創始され、7師団制となる。翌1889年1月22日、改正徴兵令公布し、戸主の意徴兵猶予などを廃止し国民皆兵を実現する。そして、2月11日大日本帝国憲法が発布される。さらに翌年1890年10月30日、教育勅語が公布される。

●外征軍の強化拡大と軍都廣島

1894年8月1日、清国に宣戦布告。8月4日、陸軍省の委託を受け山陽鉄道広島・宇品間軍用線を起工し、なんと20日に完成している。9月15日、大本営を広島に設置し、明治天皇が広島に到着する。日清戦争に勝利し、遼東半島を割譲させるも三国干渉により返還。賠償金約3億6,000万円を得る。以後、「臥薪嘗胆」による軍備拡張に力を入れる。

1895年、山形有朋は、「北は朝鮮、南は台湾と対岸の福建省」であると発言し、「利益線の援用」を主張した。翌1896年、6師団を増設し、近衛師団と12師団体制となる。北進論、南進論の根拠となり、以降50年を支配することになる。であるから、侵略への転換点は日清戦争であることがわかる。そして、1900年に小学校令により授業料徴収をやめ、1904年からは、小学校国定教科書の使用を開始する。

●日露戦争の軍拡から軍縮を経て日中戦争前の状況

1904年に始まった日露戦争時に、4野戦師団が臨時編成され、戦後も第13師団〜16師団として常備師団となる。1907年には、第17師団、18師団を加え6師団を増設し、近衛師団と18師団の計19師団体制となった。さらに、1911年羅南第19師団、1914年龍山第20師団の朝鮮軍を増設し、計21師団となった。

そして、第一次世界大戦後の1925年、陸軍軍縮(宇垣軍縮)によって4師団(第13、15、17,18師団)が廃止された。が、日中戦争で復活している。この年には、男子普通選挙法と治安維持法が成立・施行し、陸軍現役将校学校配属令が公布され、旧制中学で軍事教練が開始された。

1937年7月7日の日中戦争開始以前の師団編成状況は、近衛師団、�東京�仙台�名古屋�大阪�廣島�熊本�旭川�弘前�金沢�姫路�普通寺�小倉→久留米�(仙台)�宇都宮�(名古屋)�京都�(姫路)�(久留米)�羅南�龍山に台湾軍、関東軍、支那駐屯軍の概数23万人体制となっている。支那駐屯軍は、1900年義和団事件の北京議定書で認められた清国駐屯軍が、1912年に支那駐屯軍に改称されたものである。

 

 


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■2008,6,25(日)10:00〜

■テーマ;「軍都廣島から軍都久留米へ!」

===軍都久留米はどのように誕生したのか===

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 NPO法人東アジア交流学院

■要 旨;その2

●軍都小倉、そして軍都久留米へ

大陸侵攻基地として、北九州は重要視されている。大陸への玄関口としての門司港があり、下関の要塞、官営八幡製鉄所と陸軍小倉兵器廠が設置されている。1898年には、小倉城内に司令部が開庁され第12師団が誕生した。久留米には、第24旅団(要塞砲兵、第4連隊、騎兵第12連隊)が設置されている。日露戦争時には、近衛師団、第2師団とともに第1軍を構成している。

1907年、久留米に第18師団が新設された。久留米は博多と熊本の中間に位置し、佐賀、長崎、佐世保方面への分岐点に位置しているという理由からである。1889年に市政が施行されたものの、近代化に取り残された地方都市であった。第18師団には、歩兵第48連隊、第56連隊が増設された。第一次世界大戦時に、青島攻撃に参戦し、戦後はドイツ軍俘虜収容所が開設されている。

●大刀洗陸軍飛行場と主要部隊

1919年、陸軍航空第4大隊として誕生する。1926年、陸軍飛行第4連隊と改称し、1940年には大刀洗陸軍飛行学校が開設された。大刀洗陸軍飛行場は、航空第4大隊の飛行場として発足以来拡張を続け、敗戦時には、その施設は東西約6�、南北約3�、100を越える諸部隊が所在し、常時5,000人を越える人員を抱えていた。知覧特攻基地は、はじめは大刀洗飛行学校の分教場であった。

1896年の陸軍軍縮によって第18師団が廃止され、小倉の第12師団司令部が久留米に移転してきた。この時に他師団と比べて、第12師団には多くの兵科が設置されている。砲兵、戦車、工兵など全兵科が設置された。これにより久留米は、軍都久留米として確立されていくのである。そして、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)へ出兵して行くのである。

※画像は、「爆弾三勇士」または「肉弾三勇士」の銅像が設置されていた台座。現在は、農業試験場に移設されている。


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