August 08, 2008

2008年5月 公開講座 その1

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■2008,5,25(日) 10:00〜

■テーマ;「日本の中国・朝鮮侵略を考える」PART1

===日清・日露戦争から第一次世界大戦参戦までを考察する===

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 NPO法人東アジア交流学院

今年度最初の公開講座(月例会)は、日本の近現代史に焦点を当ててみた。江戸幕府を倒し封建社会から近代国家へと脱却した明治政府が、どのような事を東アジアで行ってきたのか振り返ってみたい。

■要 旨;その1

●柵封朝貢体制と近代国家体制

柵封朝貢体制とは、中国(中華)を中心とするアジアの体制である。いわゆる漢字の文化圏にあたる。中国の皇帝に朝貢することで、超大国の中国皇帝から支配権を認めてもらった。この体制は、「主権」といった概念を欠いている。

それに対して近代国家体制は、ヨーロッパの思想である。万国公法=国際法における主権国家を明治政府はめざした。主権国家は、国境を確定し領土主権を確立。領土内に住民が定住し主権者が統治する。主権国家は対等平等である。このヨーロッパの思想に基づき、幕府を倒し天皇を中心とした中央集権国家を作りあげていくことになる。

●明治政府と朝鮮

明治政府は、日本を主権国家として確立させるため「征韓論」を押し進めることになる。これに先立ち中国との間に日清修好条規を締結するが、対等平等の条約であったことを明治政府は後悔している。その後、琉球の漁民が殺害されたことを理由に台湾出兵を行い、50万両(テール)の賠償金を奪った。そして、中国の柵封体制にあった琉球を強引に日本の領土に組み入れた。1879年の琉球処分である。

その間朝鮮に対しては、アメリカが江戸幕府に開国を迫った同様のやり方で朝鮮に開国を要求し、1876年日朝修好条規(江華島条約)を締結した。1885年福沢諭吉は「脱亜論」を著して、中国の柵封体制から脱却して近代国家として歩むことを提唱した。さらに山県有朋は、1890年の帝国議会で「主権線」では不十分「利益線」の保護が必要であると、朝鮮を日本の「利益線」に組み入れることを提唱している。

●日清戦争

この戦争は、文明と野蛮の戦い(義戦)と呼ばれた。挑戦の宗主権を主張する清国との対立に始まった。日本は、まず1884年日本軍の武力を背景にしたクーデターを引き起こした。甲申事変である。翌年、天津条約を清国と結び、日清両軍の朝鮮からの撤退と朝鮮への出兵は事前通告が必要であることが決められた。

1894年2月甲午農民戦争(東学党の乱)が起き、6月には京城・牙山間で清日両軍が対立した。そしてついに、7月25日、豊島沖海戦で戦闘が始まった。宣戦布告は、8月1日である。9月には、陸軍が平壌を占領。海軍は黄海海戦で勝利を得て制海権を握った。その後、鴨緑江を渡河し11月には遼東半島を制圧し、1895年2月に威海衛を陥落させた。3月30日に休戦条約が締結され、実質的な戦争はここまでで終わる。

1895年4月10日日清講和条約(下関条約)調印し、清国は朝鮮の独立を承認。遼東半島、台湾を日本に割譲する。軍事賠償金2億両の支払いなどを決めた。しかし、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉を受け、日本は遼東半島変換を受諾し、代償金3,000万両を受け取った。

賠償金の使途であるが、当時の日本円で約3億6,000万円、国家予算の約3年分である金額を、軍備拡張費62,7%、臨時軍事費21,9%、皇室財産5,5%、教育基金2,8%、災害準備金2,8%、その他4,3%(中学校歴史教科書・大阪書籍)に使っている。ちなみに、官営八幡製鉄所はこの賠償金を基に着工されている。

清国は賠償金が大きな負担となり、西欧列強は中国に資本投下し、鉄道敷設や鉱山開発の利権を奪った。ドイツは山東半島を占領、ロシアは遼東半島に進出し大連・旅順を強制租借した。朝鮮では、1895年10月に親露派の閔妃が三浦五郎等によって暗殺(乙末事変)され、1897年大韓帝国が成立した。

 


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■期 日;2008,5,25(日) 10:00〜

■テーマ;「日本の中国・朝鮮侵略を考える」PART1

===日清・日露戦争から第一次世界大戦参戦までを考察する===

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 NPO法人東アジア交流学院 

■要 旨;その2

●北清事変(義和団事件)1898〜1900年

義和団とは、1898年に山東の民衆が外国人とキリスト教に反対して組織化したもので、「扶清滅洋」を旗印に各地の教会を襲撃した。その後、北京、天津地区に拡大し、清国政府も同調した。1900年、英・独・露・仏・米・伊・オーストリー・日本の八カ国連合軍が出動することになる。

1901年、清国は北京議定書を調印する。清国は列強に4億5,000万両の賠償金を支払い、外国公使館区域の設定し列強の軍隊が守備をする。このことは、清国内に列強が軍隊を駐屯させる権利を得たことになる。

日本は、北清事変(義和団事件)に2万2,000人を出動させ、連合国では最大である。議定書により、以降、清国駐屯軍が設置された。1912年には、支那駐屯軍と改称され、1936年に3,000人に増強されている。1937年7月7日の廬溝橋事件を起こしたのは、この軍隊である。

●日露戦争1904〜1905年

この戦争は、「満州」と朝鮮の支配権をめぐる日本と帝政ロシヤの戦争である。北清事変が終わってもロシヤ軍は、「満州」から撤退せず、さらに朝鮮進出を図り戦力を増強した。これは、日本の朝鮮に対する侵略意図と衝突することになる。

1902年日英同盟を結びイギリスの後押しを受けた日本は、1904年2月6日、日本海軍による仁川・旅順港のロシヤ艦隊奇襲により戦闘開始。宣戦布告は、2月10日である。そして、陸軍第一軍を朝鮮に上陸させ北進させた。5月には第二軍を遼東半島に上陸させ、6月には満州軍総司令部を設置した。結局、第一軍から第四軍まで、総兵力15師団をつぎ込むことになる。

遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台戦など、日本軍は苦戦しながらも勝利していく。1905年1月旅順占領、3月奉天会戦で勝利しロシヤ軍は退却する。この奉天会戦勝利の日が、陸軍記念日となった。また、1905年5月、日本海海戦が行われロシヤ・バルチック艦隊が壊滅する。この日本海海戦の勝利の日が、海軍記念日である。

この頃には、日露双方とも多大な戦力をつぎ込み、特に日本は戦費負担に耐えられず戦争継続不可能な状況に陥り、ロシヤでも革命騒動により戦争継続が困難な状況となる。そこでアメリカ大統領セオドア・ルーズベルト大統領の勧告により、8月10日からアメリカ北東海岸のポーツマス軍港で講和会議が開かれる。

9月に講話条約の調印が行われ、ロシヤは朝鮮における日本の優越権承認 清国の同意を条件として関東州租借地、長春・旅順口間の鉄道(のちの南満州鉄道)などを日本に譲渡 南樺太の割譲 沿海州での漁業権を日本人に与えるなどを承認した。

講話条約締結の内容が伝えられると、「臥薪嘗胆」と戦争遂行に協力させられ我慢を強いられた国民が日比谷焼き打ち事件を起こした。

 

 

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■期 日;2008,5,25(日) 10:00〜

■テーマ;「日本の中国・朝鮮侵略を考える」PART1

===日清・日露戦争から第一次世界大戦参戦までを考察する===

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 NPO法人東アジア交流学院

■要 旨;その3

●日韓議定書・第一次日韓協約から韓国併合まで

1904年、日露戦争が始まると日韓議定書が結ばれた。日本は韓国の独立および領土の保全を保障。韓国は日本政府の行動を容易にするための便宜をはかる。韓国は日本に軍事上必要な拠点を提供する。この議定書に基づいて、日露戦争が進められたのである。

さらに同年、第一次日韓協約締結。日本政府が推薦する「財務監督」「外交顧問」を置く。条約締結や外国人の特権付与については、日本政府代表と協議することなどが決められ、大韓帝国の外交権は、事実上日本人顧問の手に委ねられることになった。

1905年、第二次日韓協約締結。外国に対する関係、関連の事務は日本の指示による。日本の完全なる外交権の把握。韓国統治は、日本人の統監の監督、指揮による。12月10日、韓国統監府が設置され、伊藤博文が初代統監となった。

1907年、ハーグ万国平和会議密使事件。韓国高宗皇帝の密使がオランダのハーグで行われた第二回万国平和会議で、日本の暴力と虐政を暴露した事件。この事件で、伊藤博文は高宗を退位させ、その息子を即位させる。同年、第三次日韓協約調印。施政は統監の指導のもとにおかれ、統監が日本人を韓国の官吏に任命できるとし、韓国の軍隊を解散させ、日本政府は韓国の内政権を掌握する。

その後、反日義兵闘争が激化し、1909年に安重根(アンジュングン)が伊藤博文をハルビン駅で暗殺する。翌年の1910年、韓国併合が行われる。朝鮮総督府が設置され、初代総督に寺内正毅が着任する。寺内正毅は、日露戦争当時桂太郎内閣で陸軍大臣を務めた長州藩出身の軍人である。以後、総督は歴代軍人が就任し武断政治を行っていく。

●第一世界大戦 1914年〜1918年

ヨーロッパ列強の植民地支配の分割にやや遅れて台頭してきたドイツは、20世紀初頭からイギリスと鋭く対立し、オーストリー・ハンガリー、イタリアと三国同盟をむすんで勢力拡大を図っていた。これに対しイギリスは、フランス、ロシヤと三国協商をつくり、ドイツ包囲をすすめていた。

1914年6月28日、陸軍大演習の閲兵にボスニアのサラエボを訪れていたオーストリー皇太子夫妻が暗殺された。犯人はセルビア人の解放をめざす秘密結社の青年。かねてからセルビアの動きに反感を持っていたオーストリーは、ドイツを頼んで7月28日セルビアに宣戦布告。

開戦と同時にロシヤがバルカン半島擁護のため動員開始。これに対しドイツは、8月1日にロシヤに、3日にフランスに宣戦布告。一方、イギリスは8月4日にドイツに宣戦布告し、戦局は一気に拡大し、以降4年半にわたる大戦争となった。イギリスは、開戦三日後の8月7日、日本の対独参戦を要求。

日本政府は、日英軍事同盟を発動して、青島攻撃さらには東アジア全体にわたる軍事行動をおこすことで参戦を決意。8月15日、最後通牒をドイツに渡したが、回答期限の8月23日正午までに回答がなかったため、1914年8月23日、日本はドイツに宣戦布告を行った。

□資 料;「続・戦争と平和の暦 8月」梶村 晃


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