November 01, 2006

2006年10月 公開講座(フィールドワーク)その3

77525b5d.JPG ■テーマ:「徐福の足跡をたずねて」PART2 方士「徐福」の痕跡を探る
■講 師:内倉  武久 NPO法人東アジア交流学院学院長
■場 所:諸富町浮盃(ぶばい)・新北(にきた)神社〜瀬高町「こうやの宮」・釣殿宮(つりてんぐう)・その他

「こうやの宮」を後に、釣殿宮(つりてんぐう)へ向かった。ここは「こうやの宮」からほど近い場所にある。祭神は、長島国玉神(おさじまのくにたまのかみ)である。太神長島東字釣殿に鎮座する。

●釣殿宮(つりてんぐう)
釣殿宮(つりてんぐう)は、昔には腹赤宮(はらあかみや)と呼ばれた。天智天皇(皇太子の時)が西国修行の折、筑後江の崎(大和江崎)より船で小佐島(長島)に着かれたとき、里人が網を引き赤い腹の魚を食事に出し、皇太子が気に召され名を尋ねられたところ、にべ「鰚(はらか)」と答えた。天皇になられてからは毎年、大宰府にこの魚を献上し、また祝いの魚とした。

後年に行在所の地に釣殿を建立し、付近に旗を立てられた所を御幟(みはた)といい、鉾をたてられた所を鉾立の宮森(ひろたけさん)と称して今に残る。

例祭には漁民の参拝者が多く、御神幟をご神体として崇めた。社記には天皇の御親翰(ごしんがん)一軸を社殿に納めてあったが、鹿児島の島津家が手に入れ家宝としたと記されている。また東方の古島には、神籠水を安置された。腹赤魚をめぐる古文献があるほど由緒深い土地柄で見逃せないところである。

社には豊漁を祈願し、これを象徴したとみられる「日月と釣り針」をえがき、「次 宮元土佐守 文明十九年(1487)これ八月吉日」と書かれている旗が伝えられている。10月19日の祭礼には、この旗をたてて宮入りをする。長島(おさじま)地区の産土神(うぶすなのかみ)である。(みやま市の庶民信仰より抜粋)

フィールドワーク当日は、残念ながら祭礼の日ではなかったが、事前の下見の時に偶然、祭礼の儀式に出会った。

58c33932.JPG10月19日の祭礼の日、鐘や太鼓を打ち鳴らして氏子の集落をまわる。現在は、軽トラックに乗せられているが、以前は氏子が担いで回ったものだろう。その列の先頭には、赤と青の天狗(鬼)の面が付いた鉾が行く。また、その後ろを日月と釣り針(北斗七星?)が描かれた御神幟(旗)が続く。偶然出遭った私たちは、行列の最後尾を付いていった。

fdb72337.JPG豊漁を祈願し、これを象徴したとみられる御神幟。日月と中央に釣り針とみられるものが描かれた旗である。釣り針と見られるものは、本当に釣り針をデザインしたものか?たしかに、かぎ針の先は、釣り針のように尖って描かれている。

宇田明男氏は、北斗七星ではないかと見る。航海術に長けた海人(あま)族の象徴ではないのか。徐福一行は、その海人族の航海術を利用して、この地にたどり着いたのではないのか。徐福一族は、海人(あま)族とも深く結びついていたと考えられる。そうでなければ、大船団を遠くまで導くことができるはずがない。

584cb804.JPG釣殿宮(つりてんぐう)の拝殿の正面には、魚(鯉か?)が彫り込まれたレリーフがある。デザイン的には、「雙魚(そうぎょ)」に似ている。このデザインは、古代伽耶国の象徴になっている。また、阿喩陀(アユダ=インド)国に一般的に見られるという。伽耶国の初代金首露(キムスロ)王妃の許氏太后は、阿喩陀(アユダ=インド)国の人であると伝えられる。この伝説には疑問があるが・・・

王妃が外国から海を渡って来たということは、ある程度事実に基づいているのではないだろうか。古代、海洋を自由に行き来していた海人(あま)族との関係をみることができる。ここもまた、海人族との関係の深い一族の神社であると考えられる。

50b4c5ab.JPG 日月と釣り針(北斗七星?)の御神幟(旗)を先頭に一行が宮入りした後、氏子の皆さんたちが拝殿に集まり祝詞が始まった。その様子を見させていただいたが、一般的なものとさほど違いがある様には感じなかった。ただ祝詞の途中で神官の一人が、本殿の西側にある祠に立ち祝詞をあげているのが気になった。この神社の祭神は、本当は西に遠く離れた所にあるのではないだろうか?はるか西には、徐福一行が出発した場所のひとつとされる、山東半島付け根にある連雲港を望める。

氏子の方々には、大切な御神幟(旗)や神事を快く見学させていただき、ありがとうございました。感謝致します。


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