October 31, 2006

2006年10月 公開講座(フィールドワーク)その2

823178be.JPG ■テーマ:「徐福の足跡をたずねて」PART2 方士「徐福」の痕跡を探る
■講 師:内倉 武久 NPO法人東アジア交流学院学院長
■場 所:諸富町浮盃(ぶばい)・新北(にきた)神社〜瀬高町こうやの宮・その他

今を去ること2,225年前の紀元前219年、現在の山東省に徐福という学者がいた、仙術、医法、天文に長けた人である。巡遊中の秦の始皇帝に面会し、東方海上に蓬莱、方丈、瀛州という島があり、そこに住む仙人は不老不死の薬草を持っている。会って薬をもらってきたいと申し出た。

ようやく天下を統一した始皇帝の最大の願いは「不老不死」。水銀入りの高価な保健剤を飲んで、なんとか長生きを、もくろんでいた。が、手が震え、言葉がうまく出なくなってきた。水銀の毒にあたったのだ。

童男、童女、さまざまな技術者3千人、五穀の種や道具を乗せた大船団を組んで、山東半島付け根の連雲港などから出発、日本列島へ。失敗したが翌年にまた出発。帰ってこなかった。徐福一行の派遣、長城の建設、自らの墳墓づくりという国を傾けた大事業に人々の恨みは募り、水銀中毒で死んだ始皇帝の死後、秦はあっさり滅んだ。

「富士古文書」によれば、徐福一行は、日本列島のあちこちで仙人探し、薬草探しをしたらしいが、ないものはない。帰国せず「平原広沢を得て王になった」と。

列島各地に徐福伝説が息づいている。今回は、徐福一行が上陸した場所であるという佐賀県諸富町の船着き場、無事到着を記念して植樹したという新北(にきた)神社境内、「平原広沢の地」である可能性もある福岡県山門郡瀬高町一帯などを探訪する。

この地に留まったのは、徐福の三男坊とか。(2006,10,22 内倉武久)

これまでの学習を通して、徐福一行が日本列島に来たのは間違いのない事実であると考える。しかし、各地に残る伝承と「富士古文書」意外に彼らの渡来を示す物がない。いや、意図的に消されていると考えるべきだろう。

なぜ、消されたのか?私たちは、新北(にきた)神社をあとに、「平原広沢の地」である可能性のある山門郡瀬高町で、消された徐福一行の痕跡を探るために「こうやの宮」へと向かった。

▲画像
○瀬高町指定民族文化財 「こうやの宮」の七支刀を持つ神像
○指 定:昭和56年(1981年)2月23日
○所在地:瀬高町大字太神字鬼木ノ2 1678−2

先祖代々より「こうやの宮」といわれて、氏神として祀り続けられている祠がある。その祠には、五つのご神体が安置されている。ご神体は異国風の服を着て、男神は「七支刀」を奉持、女神は鏡を奉持している。左端がカッパの像である。

「七支刀」とは、現在奈良県天理市にある石上(いそのかみ)神宮に国宝として保存されている鉄鉾のことである。全長75糎で刀身の左右に三本づつ枝刃が出て、刀身の先端を加えて「七支刀」といわれている。

その刀身の表裏には60余文字の銘文が金象嵌されていて、その銘文は腐食のために完全には解読できない。「七支刀」は倭国の王に贈られたというが、中国の皇帝からか朝鮮の百済王からかどちらかわからない。

「こうやの宮」の祭神は、久留米市高良大社所蔵の天慶神名帳(941年・天慶四年)に記載されている「磯上物部神(いそのかみもののべのかみ)」である。祭礼日は、10月19日である。(瀬高町指定民族文化財資料より抜粋)

私たちは、地元氏子の方たちに出迎えを受けて、「こうやの宮」のご神体を見せていただいた。
fc6d27b3.JPG「こうやの宮」のご神体で、「七支刀」を持っているといわれる、異国風の服を着ている神像。手に持っている「七支刀」は、残念ながら一本欠損している。この像が、倭国王に贈呈するために百済から「七支刀」を持って来た使者を表しているのか?それとも、不老不死の薬草を持っている徐福一行の一人なのか? 左隣の像は、カッパか?それとも、南太平洋からの祝いの使者?

8175a928.JPG五つのご神体の真ん中に、他の神像よりも大きく二段の台座に座っている像がある。この人物は、手に勺の様な物を持っていて、胸には「五七の桐」の紋がある。この像は倭国王ではないのか、という指摘をされている像である。とすれば、やはり先ほどの像は、「七支刀」をもたらした百済の使者であるのか?それとも、磯上物部神(いそのかみもののべのかみ)の武人か?

590f528a.JPG鏡を持っているとされる、女神の像。女性のようにも見えるが、若い少年のようにも見える。服装としては、もっとも大きい神像と同じ倭国の服装であろうか。私たちがイメージする平安時代の服装であるように感じる。古田武彦氏は、九州王朝から分王朝した近畿天皇家からの祝いの使者だとする。右側の人物も、北方からの祝いの使者だとする。

cc594b15.JPG「こうやの宮」の側で、学院長の説明に耳を傾ける氏子の皆さんと参加者。以前はすぐ側にある七軒でこの祠を守って来られたが、町の民族文化財の指定を受けた後は太神(おおが)の40数軒が氏子となり守っているとのことである。

ちなみに、今回お世話になった氏子三人のお名前は、すべて江崎さんであった。当日は河川浄化の行事の中、時間を取って神像を見せていただきありがとうございました。感謝致します。


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