January 30, 2010

2010年1月 公開講座 その2

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■2010,1,23(土)

■テーマ;「中国・韓国の一人旅をして・・・」

=旅の極意を考える=

■講 師;堀江 真史さん 福岡工業大学3年 NPO東アジア交流学院

■要 旨;その2

◎中国の旅行事情 ●交通手段

中国へのフェリーは、山口県下関から青島と太倉(タイサン)コンテナ港の2航路がある。太倉は上海の北西、長江河口付近にある。現在は運休中で、来年の夏に再開する予定である。

中国国内の都市間の交通手段には航空機、鉄道、高速バスなどがある。航空機では、今年見つけた上海に本社がある「春秋航空」が格安である。上海・青島間が300元という安さである。ただし、機内サービスは水だけ!食事を頼むと高い!やたらと機内販売をする。

鉄道は寝台快速がお勧め。硬座寝台のチケットは購入するのにコツがある。10日前から販売されるが駅では購入しにくい(人が多い!)ので、都市中心部にある出張所で購入すると買い求めしやすい。

新幹線も便利で早く移動できる。北京・上海間は10時間。寝台新幹線があり、夜出発して朝には目的地に到着する。ただし、20時間以上乗る寝台快速は非常に疲れるのでできるだけ避けた方が無難である。

都市間バスでは高速道路を通る高速バスがその中心で、鉄道路線がない都市間で利用する。一般道路を通行する各駅停車バスもある。こちらは手を上げるとどこでも停車して乗ることができる。時間がかかりそうだが、それでも煙台・青島間は2時間半くらいで着くことができる。

地方都市からさらに田舎に行くためには、田舎バスを利用する。満席になるまで出発しない。途中の町でも同じ。故障以外でも止まる。昼食時間になると停車して弁当時間になる。乗客も心得たもので、ちゃんと弁当を買い込んで乗っている。自分だけその間ただ待っていた。

田舎町からさらに田舎に行くのには、バイクタクシーがある。終点のバス停には、何台ものバイクタクシーが待ち構えていて客待ちをしている。バスから降りてきた乗客と交渉が成立すると、それぞれの方向へと走り去っていく。夕方5時を過ぎるくらいになると、いつの間にか1台もいなくなってしまう。料金は10kmで20〜30元である。

都市部では、タクシーが多い。大連近郊には三輪タクシーがある。また、白タクも多い。が、こちらは利用しないが無難である。

市街地の交通手段としては、上海、北京、広州などでは地下鉄(地鉄)を利用する。市内バスも安い。どこまで乗っても、1元。エアコン付は2元。これらを利用するのには交通カードが便利で安い。その都市でしか使えないが、北京のバスカードはなんと6割引でお得である。

●宿泊

ボロホテルを利用する。料金は100元〜150元。駅に近いと部屋もけっこうきれいで、シャワーもちゃんとお湯がでる。お湯が出ない水の時は、近くの銭湯へ行く。40元でマッサージ付である。

ビジネスホテルも利用する。如家、MOTEL168、速8などのビジネスホテルチェーンを利用する。如家は中国全土に500店以上ある。どこも料金は、130元〜220元。インターネットなどで予約すると20元安くなる。

昔ながらの招待所、旅館は、シャワーが出ない、または水シャワーだけなのでやめておいた方がよい。

●食事

町の食堂を利用する。イスラム食堂が安くて旨い。「蘭州」「ラサ」などすぐにイスラム食堂とわかるネーミングになっている。従業員がウイグル族チベット族がほとんどだから、安くできるのだろう。

朝は、街角のマントウ売りを利用する。セイロを積み上げてあるのでわかりやすい。具入りのマントウが1元〜2元。列車などの車内販売は街の2倍はするので、買ってから乗るように心がけている。

※●銀行口座開設 ●携帯電話購入は、ブログでの紹介は省略する。

  

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January 20, 2010

2010年1月 公開講座 その1

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■2010,1,23(土)

■テーマ;「中国・韓国の一人旅をして・・・」

=旅の極意を考える=

■講 師;堀江 真史さん 福岡工業大学3年・NPO東アジア交流学院

11月公開講座は、シンポジウムの報告会を開催し、その後「忘年会」となった。報告会では、吉野ヶ里での「なぜ邪馬台国は九州か」と高良山神籠石サミットの報告をしてもらった。シンポジウムでの発表は、最新の発掘調査のデータなどをを学ぶいい機会である。

邪馬台国でなく邪馬壹国であり、倭国=九州王朝と考える私たちにとってはもっと踏み込んだ討論を期待していたのだが、どちらもオブラートにくるんだような発言ばかりで九州説を補強するような新しい発掘調査の報告もなかったのが残念であった。

今回の1月公開講座では、古代史から少し間をおいて現代の中国・韓国の旅事情に詳しい堀江さんに講師として来ていただいた。彼はかつて一緒に東アジア交流学院の中国語教室で一緒に学んだ人であるが、いつの間にやら中国語のみならず韓国語までマスターしてしまった語学才能あふれる人物なのである。

その秘密が中国・韓国への一人旅なのだが、彼に一人旅の経験を語ってもらう中で、サブテーマにある「旅の極意を考える」を深めていきたい。

■要 旨;その1

一、はじめに

私が高校1年生のときに、学校の図書館で「深夜特急」という旅行記を読んだことがきっかけで、それから一人旅に出たいと思うようになった。

二、今までの一人旅経験

1、2005年;はじめての一人旅(釜山・晋州 6日間)

郵便局でアルバイトをして貯めたお金で、高校2年の夏休みに韓国へ出かけた。高校1年生のときの「福岡YWCA日韓交流ホームスティ」で知り合った友達に会いに行った。宿の探し方、旅立つ前の情報収集のしかた、国際電話のかけ方、町の人との会話など一人旅に必要なことをいろいろと学んだ。それにプラス、度胸が必要である。

2、2007年;大学の友達と韓国へ(ソウル・釜山・晋州・馬山・昌原 11日間)

大学に入学してからアルバイトで貯めたお金で、高校からの友達と一緒に韓国へ3人旅に出る。友達は予算の都合で途中帰国したので、後は一人旅となる。去年あった友達に再会。都市から都市への移動中に見る田舎の風景を見て、田舎に行ってみたいと思い始める。

3、2008年;はじめての中国一人旅(太倉・上海・合肥・北京・大連・煙台・青島・済南 24日間)

02年「久留米合肥友好大使」の時に知り合った友達と、「日中友好文通の会」で知り合ったペンフレンドに会いに中国へ。列車の切符を買う大変さを味わった。少しでもお金を節約するために、下関からフェリーに40時間乗って行った。

合肥では、友達に6年ぶりに再会する。ホテル伯の予定だったが、友達が家に泊めてくれた。北京はパラリンピック中で、中国中がオリンピック一色だった。大連ではペンパルに初めて会った。手紙に書いていた事を中心に、おしゃべりで大いに盛り上がった。

下関からフェリーで降り立った「太倉」という町と煙台から青島へのバスに乗って途中で見た田舎町を見て、中国でも田舎に行きたいと思い始める。台風の影響で、船が欠航して4日間足止めを食らう。しかし、そのおかげで済南という都市へ小旅行ができた。

4、2009年;はじめての香港、中国田舎旅(青島・上海・深圳・香港・開平・太倉・啓東・大連 37日間)

去年のオリンピックムードの名残がまだ残っていた。スローガンを書いた垂れ幕などが、まだ残っていた。今回も船で中国へ。「深夜特急」を読んでから、ずっと行きたいと思っていた香港へ。そして、古い洋館の残る「開平」や上海のはずれのド田舎、長い長い長江の最終地点「啓東」、去年訪れた「太倉」など、田舎町を中心に旅して回る。

そして、世界第3位の長さを誇る「東海大橋」、「ロシア航空母艦のテーマパーク」、「某中国映画に出てきた駅」「旧香港空港跡地」「長江河口」「太倉の観光化されていない水郷古鎮」など、パックツアーでは行かないようなマニアックな観光地(?)を見て回る。

手を上げたらどこでも乗れる田舎バス、バイクタクシー、白タク、など田舎を旅する交通手段をいろいろと知ることができた。宿も、一泊150元(2200円)以下のボロホテル、旅館を利用した。一番安かったのは、開平の60元。

合肥へ行く前日、母親が日本から飛行機で上海にやってきた。翌日、列車で一緒に合肥へ。友達の母さんが、「来年はぜひ家族でいらっしゃい」と言っていたので、途中で合流するように計画しておいた。母は、合肥に2泊して、上海に2泊した後、帰って行った。

帰りの船に乗り遅れてしまい、一週間足止めを食らう。しかし、そのおかげで大連に行って、文通友達に再会できた。またも、おしゃべりで大いに盛り上がった。

  
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January 17, 2010

久留米市日中友好通信VOL,94

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■2010,1,11(月)

★恭賀新禧!★

===新年、明けましておめでとうございます!===

お元気で、よいお年をお迎えのこととお慶び申し上げます。昨年、永く続いた自公政権に変わって、民主政権が誕生しました。新政権と中国政府は良好な関係で船出をし、未来に明るい展望が開けてきました。

さて今年は、友好都市締結30周年となり久留米市での記念式典が開催されます。久留米市と当協会が中心となり行事に取り組まなければなりません。この行事の成功に向けて皆様のご支援、ご協力よろしくお願い申し上げます。

2010年 元旦

久留米市日本中国友好協会 会長 中嶋 道生・役員 一同

 

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January 16, 2010

韓国語・久留米教室 合同忘年会

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■2009,12,25(金)

■韓国語・久留米教室 合同忘年会

24日に引き続き、今度は韓国語・久留米教室の合同忘年会に参加しました。久留米教室は、水曜日の19:00と土曜日の9:30に教室を開催しています。全員参加にはなりませんでしたが、本町4丁目の韓国家庭料理の店「ウジン」で合同の忘年会を行いました。

韓国語教室受講生は、女性の方が圧倒的に多いので私も引っ張り出されるのです。でも、韓国料理も大好きなので積極的に参加しています。チャミスルも呑めますし・・・(笑)

金曜日といっても仕事の都合で、皆さんなかなか揃いませんで心配しましたが、予定より少し遅れたくらいで始めることができました。料理も美味しいので、ビールもチャミスルも進みます。あっ!明日も教室ありますよ!念のため。

 

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January 15, 2010

韓国語・福岡(薬院)教室 クリスマス会

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■2009,12,24(木)

■韓国語・福岡(薬院)教室 クリスマス会

12月24日(木)に、韓国語・福岡(薬院)教室でクリスマス会が行われた。私は、久留米で中国語の教室があっていたのだが、クリスマス会ということで、ケーキを持参し参加した。

始まりの1時間は、学習をします。内容はクリスマスにちなんだ歌をなりました。クリスマスの定番であるジングルベルをハングルで歌います。私は韓国語がわからないので、ジングルベルのところだけを歌いましたが、ジングルベルも韓国語で発音しなくてはならなかった。・・・みたい?(苦笑)

講師のジョさんが、張り切って歌っていました。クリスマスだからか?テンションが高い!いや、この後のパーティーでの食べ物に期待しているんだろうなぁ〜・・・(爆)

ごらんの通り、手作りのキムパッなどテーブルにたくさん並びました。美味しかったぁ〜!ビールも旨い!

 

 

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January 14, 2010

久留米市日中友好通信VOL,93

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■2009,12,12(土)

★久留米大学「国際交流懇親会」に参加!★

===久留米大学の留学生たちと交流を深める!===

12月12日(土)、久留米大学留学生会(何兆文会長)主催の2009年留学生「国際交流懇親会」に久留米市日中友好協会からも会員が招待され参加しました。

この懇親会は、各国から久留米大学に留学する学生たちの交流だけでなく、日本人学生や地元の人たちとの交流も進めています。

久留米市日中からも毎年、理事や会員が招待され参加しています。開会セレモニーの後、晩餐会や留学生たちによるアトラクションが行われました。

今年は、地元良山中学校の渡邊さんが「詩吟」(全国大会優勝!)を披露してもらいました。今年も楽しい時間を過ごさせていただきました。感謝!感謝!

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January 13, 2010

馬頭琴演奏会 南小

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■2009,12,1(火)

■馬頭琴演奏会 IN 南小

今年も小学校に出かけての馬頭琴演奏会が始まった。西鉄久留米駅で待ち合わせして、南小に着いたのは演奏会の15分前であった。

演奏者は、ドランさんである。彼女との付き合いは長い。今年は大学を卒業して初めての小学校での演奏会である。急いで身支度をして、会場の体育館へ向かった。

会場の体育館では、今回も150人ちかい人数の子どもたちと保護者の方が出迎えてくれた。進行の保護者の方の紹介で正面へと移動した。子どもたちだけでなく、こちらも最初は緊張する場面である。

これから学習する「スーホーの白い馬」を学習するにあたり、馬頭琴の演奏会を開催してもらったことに感謝します。はじめて馬頭琴の音色に接して、どんな感想を持ってくれるのかとても楽しみである。

 

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January 12, 2010

2009年度 忘年会

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■2009,11,28(土)

■NPO東アジア交流学院・忘年会

宮崎への取材の帰りに久留米に立ち寄った。公開講座に出席することと、忘年会に参加することである。

公開講座での報告では、久留米文化財保護課による上津土塁の年代を出土土器から7〜8世紀ころのものとしているが、一方で「筑紫大地震」の地震痕跡があることで678年以前に築造されたものとしている。担当者の苦渋の選択が偲ばれる書き方である。土器年代測定だけに頼るのは無理があるということだろう。

今回の公開講座のようにシンポジウムでの発表に注目し、検証を重ねていくことで、いわゆる古代史学会の定説なるものがいかにあやふやなものであるか明らかにしていくことが大事なことだと思う。

公開講座の後忘年会は、「上海夢飯店」で行われた。久留米大学卒業の楊明さんが開いた中華料理のレストランである。そういえば、昼食も西鉄久留米駅にある「○○」だった。こちらも楊明さんの水餃子専門店である。本日二回目の中華料理ということになった。

久留米近郊の会員と中国語教室受講生の皆さんが集まった。今年の反省と感謝をこめて、久々に会話が弾み楽しいひと時となった。

 

 

 

  
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January 11, 2010

2009年11月 公開講座 その1

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■2009,11,28(土)15:30〜

■テーマ;「なぜ邪馬台国は九州か?」

■講 師;井上 和人さん NPO東アジア交流学院

先月のフィールドワークは、講師の体調不良の為、急遽延期とさせていただいた。連絡が不十分で、当日集合場所に来ていただいた方もいて大変申し訳ありませんでした。

今月、11月の公開講座は、各地で行われたシンポジウムの報告会である。シンポジウムでの発表をまとめ検証して見たいと考える。

吉野ヶ里遺跡公園で開催された「なぜ邪馬台国は九州か?」について、当学院の井上和人さんに報告をしていただいた。

■要 旨;その1

1、「魏志倭人伝」を読む限り北部九州のことしか書かれていない。

2、伊都国までは直線的「至る・・・」ところが伊都国からは放射状・・・書き方が違っている。

3、剣・玉・鏡の出土量が畿内に比較して断然多い。三種の神器(宝器)が天皇家=大和王権のシンボルとすれば九州からのものが採用された。

4、環濠集落が圧倒的に九州に多い。吉野ヶ里や平塚川添遺跡など・・・

5、地理的・政治的状況

@九州説では

�揚子江流域に弥生文化の源流があるとされるが、弥生文化の担い手が対馬海流に乗って朝鮮半島から、朝鮮半島南部、北部九州、出雲などに漂着した可能性が高い。これらの地域が先進地域であり、その後も主導的な役割を果たした地域である。

�渡来人によって朝鮮半島や中国から文化や技術が東の果ての日本にやって来るとき、まず九州から入り東に向かって広がっていく。2〜3世紀は、九州が先進地域で機内は後進地域であった。

※畿内説では

�2〜3世紀は、中国の内乱、倭国大乱を避けるために都を奈良盆地の纒向にした。

�大和は、瀬戸内海に近く、交通の要所。人口も多く日本の中心であった。

�陳寿は、邪馬台国と初期大和政権を同一と考えていた。呉、蜀への戦略的理由から魏の同盟国邪馬台国を誇張して表現して、九州の彼方に巨大国家があったと記した。

6、国家統一の状況

@九州説では

�日本の全国統一は5世紀以降であり、3世紀の邪馬台国の時代は地域分権国家であった。この時代に北九州から南九州・出雲・吉備・畿内・東海まで広範囲の地域を大和王権のような権力が存在したとは考えにくい。

�弥生時代の祭祀用の銅鐸が大和政権成立後一切登場しない。九州の祭器だった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場し、剣は天皇家の三種の神器になっている。邪馬台国が近畿に生まれ、邪馬台国が大和王権に発展したというなら、どうして銅鐸が消えてしまったのか。邪馬台国が九州から畿内に入り、大和王権を樹立して日本を統一したと考えるのが妥当である。

�栄えていた邪馬台国が征服されたという伝説は存在しない。邪馬台国が突如として消え、大和王権が全国統一の勢いを強めてくる。ヤマトという名称は九州起源ということも考えられ国家統一した勢力が九州から畿内に来て、大和王権を樹立した。

�九州にあった国が、中国から見た邪馬台国であった。応神天皇と卑弥呼を混同している。また、神功皇后と卑弥呼を同一とみなし、日本書紀は卑弥呼を神功皇后とほのめかしている。

※畿内説では

�倭国大乱は九州内での紛争ではなく、全国的な内乱であった。3世紀には、中部日本と西日本を統一する大和王権が誕生した。女王国の誕生は、この広い地域を支配する国家の誕生だった。

�邪馬台国は、29カ国が従属しており、すでに中央集権的な国家であった。その勢力の一部が大和王権に移行した。

7、倭国大乱

※畿内説では

�倭国大乱は、九州内での紛争ではなく畿内と北部九州の二大勢力の戦いであった。広範囲に(九州・瀬戸内・畿内)に広がる高地性集落が倭国大乱の証明である。

�倭国では、大きな戦乱が3回あった。一回目は2世紀後半の倭国大乱。二回目は3世紀中ごろの邪馬台国と狗奴国との紛争。三回目は卑弥呼の死後の倭国内の戦乱である。

@九州説では

�大乱は金印国家奴国と邪馬台国の争いであった。大乱を境に墓制が甕棺から箱式石棺に変化した。鉄製武器が博多湾沿岸の奴国から内陸の筑紫平野(朝倉・甘木)に移動した。

�奴国の後ろ盾の漢が弱体化した時、魏の支持を受けた邪馬台国が奴国から政権を奪った。奴国の金印はこの戦乱の時、志賀島に埋められた。

�倭国大乱は九州内での戦乱であり、その後30カ国の原始国家が生まれ邪馬台国が君臨する時代となった。この時代にはまだ中部や西日本を統一する勢力はなかった。

8、女王卑弥呼

@九州説では

�卑弥呼のことを神格化し、伝説化したのが天照大御神である。卑弥呼も天照大御神も太陽神である。卑弥呼が亡くなった二年後に皆既日食がおきた。それが「天岩戸伝説」となった。

�神武天皇が在位していた時代は280〜290年頃、神武天皇から五代前の天照大御神の時代は230〜240年頃、卑弥呼が魏に使いを送ったのは239年頃である。卑弥呼と天照大御神の時代が重なる。

�吉野ヶ里遺跡で弥生時代中期の巨大墳丘墓が確認された。1世紀の九州で大きな墳丘墓が確認されたとすれば、3世紀の邪馬台国時代に計100余歩の卑弥呼の墓として巨大な墳丘墓が存在してもおかしくない。

※畿内説では

�日本書紀の神功皇后記では、卑弥呼は大陸とも交渉した偉大な女王ということから、卑弥呼は神功皇后のことであり、邪馬台国は大和である。

�古事記記載の崇神天皇の没年干支(丑寅)をもとにすると、崇神天皇は258年に亡くなった。卑弥呼が亡くなったのは248年頃と考えられるので、ほぼ崇神天皇の時代が卑弥呼の時代である。崇神天皇の時代の巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)こそ卑弥呼である。倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が卑弥呼の墓である。

9、卑弥呼の鏡

@九州説では

�卑弥呼のもらった100枚の鏡は、当時、中国に存在していた内行花文鏡・方格規矩鏡の後漢鏡である。これらの後漢鏡は、中国でも出土し北九州の墳墓から多く出土する。

�日本だけで500枚以上出土しながら、中国では1枚も出土しない三角縁神獣鏡は、日本で作られたものであり、卑弥呼の鏡ではあり得ない。

※畿内説では

�卑弥呼がもらった鏡は三角縁神獣鏡である。卑弥呼の時代の「景初三年」の銘が入ったものが出土している。三角縁神獣鏡は畿内から多く出土する。関東や九州からも出土するがそれは卑弥呼の時代に、大和の勢力が関東や九州にも及んでいたとみるべきである。

�三角縁神獣鏡が中国では1枚も出土しないのは、卑弥呼のための特注品だからである。

�奈良県の3世紀の墓、黒塚古墳から33枚の三角縁神獣鏡が出土した。邪馬台国が畿内にあったということを裏付けるものである。

�これまでに出土している三角縁神獣鏡は500面を超える。当時は5000面以上あったと考えられる。卑弥呼が魏からもらった鏡を真似て国産品が製造されたからである。

全体的に九州説と畿内説の並記が基本で、「なぜ邪馬台国は九州か」と言った具体的な説に欠けるような感じがする。

4世紀から5世紀の九州王朝=倭国の事跡を考えれば、邪馬台国が畿内ではなく九州にしか存在し得ないことがハッキリするのではと考える。

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