February 28, 2008

2008年2月 公開講座 その3

3bb19267.JPG ■2008,2,24(日)
■テーマ;「筑後国府の謎」PART1
===筑後国府は、なぜ変遷をしたのか===
■講 師;水原道範さん 久留米市文化財保護課

■要 旨;その3

●移動する国府
 2,第2期国庁〔合川町阿弥陀(あみだ)〕地区

8世紀の中頃、国庁は古宮(ふるごう)地区から東方約200mの合川町阿弥陀(あみだ)・脇田(わきた)地区に移動する。この第2期国庁は、南北75m、東西67,5mを築地(ついじ)塀で囲まれ、内部には瓦を葺いた礎石建物が建ち並んでいた。国庁の建物配置は、中央北辺に正殿(せいでん)、正殿の全面に前殿、その東西全面に各2棟の脇殿を縦列配置したものである。

これらの建物群は、当時の九州地方を統括していた大宰府政庁と同じような配置をしていたと考えられる。瓦葺きの建物は当時非常に少なく、整然と建ち並ぶ国庁の建物は、さぞ光り輝いて見えたことだろう。長い筑後国府の歴史の中で、最も整備された国庁であることが判明した。しかし、この第2期国庁は、941年(天慶4年)に起きた藤原純友の乱で消失したと考えられ、10世紀中頃には再び国庁は移転する。

また、第2期国庁の東南には、国史跡に指定されている国司館跡が広がっている。国司館とは、都(中央)から派遣されてきた上級役人(国司)の館のことで、南北約180m、東西約70mの範囲を国司館と考えてきた。ところが、「守(かみ)館」(守とは国司の最上級役人)と墨で書かれた土器が出土した。そのため、国司館南限の南側一帯を調査し、この結果、これまで考えられてきた国司館の範囲よりさらに南側で、大規模で格式高い建物が発見された。

※3月に、現地説明会を開催する予定である。  続きを読む

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February 27, 2008

2008年2月 公開講座 その2

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■2008,2,24(日)
■テーマ;「筑後国府の謎」PART1
===筑後国府は、なぜ変遷したのか===
■講 師;水原道範さん 久留米市文化財保護課

■要 旨;その2

●移動する国府
筑後国府の最も特徴的なことは、国庁が移転し、500年もの間存続したことである。諸国の国庁は概ね一カ所で10世紀頃には廃絶してしまっている。だが筑後国府は、三回移転しながら、鎌倉時代が始まる12世紀後半まで存続していたことが判明した。特に、第4期国庁への移転に関しては、高良大社に伝わる「高良記(こうらき)」に記載があり、発掘調査でもその事実が確認された。これは全国では唯一のことである。

1,第1期国庁〔合川町古宮(ふるごう)〕地区

第1期国庁は、高良側を望む台地上に造られている。周囲を幅約4〜6mの築地塀(ついじべい)と溝で囲まれている。南北170m・東西80m以上の広さを誇る。この敷地内からは、計画的に配置された掘立柱(ほったてばしら)建物がたくさん発見されている。溝などから出土した土器から判断すると、第1期国庁は、7世紀末頃に建設されたと考えられ、全国でも最古級の国庁である。

また、筑後国成立以前の7世紀中頃にも、古宮(ふるごう)地区には大型の堀立柱建物群が立てられていたことがわかった。四面に庇をもつ構造で、当時としては全国でも最大級の建物である。国府成立前の前身官衙(かんが)ではないかと考えられる。この前身官衙の北側には、幅約6m・深さ約3m・長さ約400mに及ぶ二本の堀がある。防御施設であると考えられているが、わかっていない。

※663年の白村江(パクソンガン・はくすきのえ)の戦い以後に、大宰府防衛のために築かれたのではと考えているとのことだが、はたしてそうだろうか。679年の筑紫国大地震による液状化・噴砂跡が見られることから、それ以前に築かれたことは間違いないのだが・・・土器による年代測定でなく、理化学的な年代測定により確定してもらいたいものである。

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February 26, 2008

2008年2月 公開講座 その1

54294827.JPG ■2008,2,24(日)
■テーマ;「筑後国府の謎」PART1
===筑後国府は、なぜ変遷したのか===
■講 師;水原道範さん 久留米市文化財保護課

今回の公開講座は、1961年以来40年以上にわたって発掘を続けられている筑後国府の謎に迫ってみたい。律令制が始まってからの歴史については、これまでほとんど学習して来なかったが、地元久留米で発掘されている筑後国府は、7世紀末から12世紀後半にかけて、およそ500年にわたり筑後国の政治、経済、軍事、文化の中心地として栄えてきた。これは、全国的にみて異例の長さである。

久留米の高良大社を取り囲むようにある高良山神籠石(こうごいし)については、その検証をしフィールドワークを実施してきた。しかし、そのすぐ側にある筑後国府については、ほとんど学習して来なかったことが悔やまれる。今回、久留米市文化財保護課の水原さんを招いて、筑後国府の発掘現場から見えてきたことを話していただいた。

1961年から始まり40年以上にわたる発掘調査により、筑後国府に関する数々の謎が解明されてきている。そして、全国的にみても珍しく、つごう三回(四カ所)にわたり移転し、立て替えが行われてきたことが判っている。ねばり強く続けられている、久留米市の文化財行政に感謝したいと思う。今回の講座で、その一端をかいま見ることができたら幸いである。  続きを読む
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February 24, 2008

筑後国府跡 現地説明会

38af2554.JPG ■幅9Mの役所跡が出土!行政の中核施設か!
■2008,2,16(土)
■久留米市合川町 第2期筑後国府跡

前日の新聞で、筑後国府跡から国府の中心である政庁周辺に配置される「曹司(そうし)」と呼ばれる役所跡や儀式を行う広場など、当時の行政機関の中核施設とみられる遺跡が出土した。市民向けの現地説明会が開催されると聞いて出かけてみた。

筑後国府跡の調査は、1961年にスタートしている。じつに40年以上にわたる発掘調査により、様々なことがわかってきている。今回の発掘調査は、第2期国府跡の南150mでの調査である。じつは今月24日(日)の公開講座で、「筑後国府の謎を探る」というテーマで開催を予定していたので、興味を持って参加させてもらった。

久留米市文化財保護課では、役所跡と見られる遺跡では一辺150cmの正方形の柱穴が8カ所見つかり、建物の幅が8mと推定されるとのことだ。奥行きは未調査であるが12m以上とみられるとのことである。また、かなり大きな建物で、重要な建築物にしかないひさしを設置したとみられる柱穴もあることから、実務を担っていた曹司の中心的建物と考えられる。

当日は、考古学に興味関心をもつ数十人の参加があり、現地説明会は活況を呈していた。地元久留米の古代の姿に興味を持っている人たちが、これほど多いとは驚きだった。  続きを読む
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February 16, 2008

今年も善導寺小で馬頭琴演奏会

ab26c9a8.JPG ■2008,2,6(水)10:00〜
■久留米市立善導寺小学校

今年も久留米の善導寺小学校からお呼びがかかり、馬頭琴の演奏に出かけた。久留米市の小学校では、小学2年生の国語の教材に「スーホーの白い馬」があり、その中で主人公のスーホーが死んだ馬を偲んで馬頭琴を作ったという話がある。子どもたちに、その物語に出てくる馬頭琴に直接触れてもらいたいという思いから、小学校の先生たちからの要望で毎年出かけている。今回も善導寺小学校のH先生から要請されて出かけた。

善導寺小学校では、というより屏水中学校校区内の4小学校(善導寺小学校、草野小学校、大橋小学校、山本小学校)合同で、この「馬頭琴演奏会」を企画実行されている。将来同じ中学校に通うことになる子どもたちが、このような機会を通して学習し交流を深めているのは大事なことだと考える。

馬頭琴の演奏は、久留米大学の留学生のドランさんだ。彼女は、中国内モンゴルの首都フフホトの出身で、13歳の頃から馬頭琴に親しんできた。モンゴル族だが、王静(ワンジン)という中国名も持っている。この数年一緒に久留米市内の小学校に出かけて、馬頭琴の演奏とともに中国・内モンゴルの紹介をさせていただいている。私は日中友好協会の一員として、このような機会に一衣帯水といわれている中国の歴史、文化、人々を紹介することができて大変感謝している。

最近、加工食品に薬物が混入されていた事件で、日本人の中国に対する意識が、また悪くなっているように感じる。一つの事件から、だから中国は・・・と、全てを決めてしまうのは如何なものかと思う。事件の真相はまだ解明されていないが、日本国内でも、かつて似たようなことが起きていたことを考えてほしいものだ。早く事件の真相が、解明されることを願っている。

これからの子どもたちに、長い交流の歴史と、私たち日本人の遠い先祖の地である中国・モンゴルとの関係を感じる一つの機会として、馬頭琴の演奏を続けていきたい。また、これからも東アジアの友好と明るい未来を構築して行くためにも、活動を続けて行きたいと思う。  続きを読む
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February 10, 2008

久留米市日中友好通信 VOL.64

03cd3b86.JPG ■2008,2,2(土)発行                                             

★地元に感謝!「春節のつどい」開催!★
===2月2日・中国人留学生学友会主催!=== 

2月2日(土)、御井校区顔ミュにティーセンター(旧御井校区公民館)において、久留米大学中国人留学生学友会主催の「春節のつどい」が、春節(7日)を前にして開催されました。

このつどいは、中国人留学生が日頃お世話になっている地元御井町の皆さんに、お礼と交流を深める目的で始まったものです。

小雪がちらつく寒い中、中国人留学生や地元の人たちなど150人以上が参加しました。留学生の手作りの料理がずらりとならび、留学生の歌や馬頭琴の演奏、それに地元の方たちの日本舞踊や三味線の演奏などで交流が深まりました。

■ご案内(予定)

◎3月 4日(火) 福岡県日中友好協会理事会 13:00〜 福岡市庁舎
◎3月 8日(土) 久留米市日中友好協会理事会 10:00〜 国際交流サロン
◎4月12日(土) 新入生歓迎「つづじ花見会」 11:30〜 石橋文化センター

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2008年2月 公開講座のご案内

53090703.JPG ■2008年2月公開講座(月例会)のご案内
■2008,2,10(日)

7世紀末頃、筑紫の国と呼ばれていた福岡県西部地域は、筑前国と筑後国に分国された。筑後国が成立すると、国を治める役所が現在の久留米市合川町に設置された。それが筑後国府である。

今回は、筑後国の政治・経済・文化の中心として栄え、現在にいたる久留米の繁栄を築いた筑後国府の謎に迫る。ぜひ、お出かけ下さい。

■1,テーマ;「筑後国府の謎」part1
===筑後国府の移転の謎を検証する===
■2,講 師;水原道範さん 久留米市役所文化観光部文化財保護課
■3,日 時;2008年2月24日(日) 10:00〜
■4,場 所;NPO法人東アジア交流学院 久留米事務所
■5,問い合わせ;090−3324−9540(田所携帯)

※会員以外の方は、参加費(資料代)500円が必要です。  
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NPO法人東アジア交流学院 2008・新年会

0d793051.JPG ■2008,1,26(土)
■NPO法人東アジア交流学院・新年会 

1月公開講座の後は、新年会である。今年は、近くの「農家のレストラン」で行った。公開講座には間に合わなくても、新年会には間に合いましたよね。(爆)

今年度の公開講座も、残すところあと2回になった。2月は「筑後国府の謎」、3月はそのフィールドワークを実施する予定だ。まあ、予定は未定だけど・・・

そろそろ来年度の計画も、構想を立てないと行けない時期になりましたので、古代史だけでなく現代史も取り入れてバランスを考えないと・・・などと、話はつきません。話しながらついつい盃もグラスも進みますね。  続きを読む
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2008年1月 公開講座 その5

ef3457c7.JPG ■2008,1,26(土)
■テーマ;東アジア(日本・中国・韓国)における古代交流の歴史
===日本人のルーツを探る===
■講 師;田所寛和さん NPO法人東アジア交流学院

■要 旨;その5

○日本の建国神話=天孫降臨

「古事記」には、天孫ニニギノミコト(神武一族の祖とされる)が、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)に降りた・・・
此の地は韓国に向かい、笠沙の御前を眞来とおりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故に此の地は甚吉き地也。

筑紫は九州を、日向は現在の宮崎県を、高千穂は高千穂の峰を推定している。しかし、此の地は韓国に向かいとあるので無理がある。無理があるので、高千穂の峰の北にある山を、韓国岳とよんでニニギが山頂から韓国を見たのだとされている。だが、それでも宮崎県ではこうはいかない。

福岡県前原市と福岡市西区の境に日向(ひなた)峠がある。また、日向川もあり、筑紫の日向は、宮崎の日向(ひむか)ではなく、福岡の日向(ひなた)であると考えた方が自然である。さらに、高祖山の南にはクシフル岳もあり、志摩町には可也山(365,1m)もある。

このことから、ニニギは現在の福岡県前原市において、このことをうたったのである。しかも、この場所は韓(加羅)国の方を向いているので、大変良いところだ。といっているのである。

このことは、ニニギ(神武の祖先)は、韓半島から渡海してきた一族であることが考えられる。それに、伽耶国・首露(スロ)王の王子が一人行方不明であることと、跡を継いだ居登(コト)王の息子・仙が九州に派遣されたことを考え合わせると、私たち日本人の一部は韓半島から来たことが明白である。

●私たち日本人の祖先は、二千数百年前に中国大陸の江南の地から稲作技術を携えて来て、日本列島に稲作農耕という弥生文化を花開かせた。また、千数百年前に韓(朝鮮)半島から鉄器製造技術を持って来て、弥生時代以降の列島の統一を成し遂げた人々の末裔である。

したがって、二千数百年前は中国人であり、千数百年前は韓国・朝鮮人であった。さらに、飛鳥時代や奈良時代にも、数多くの渡来人が韓(朝鮮)半島からやって来ている。白村江(パクソンガン=はくすきのえ)戦い以降、百済の王族や貴族が大挙して亡命してきているのはその一例である。

弥生時代から奈良時代までの数百年間、何世代にも渡る長い間の渡来と混血による同化によって、私たち日本人が形成されたのである。

□参考文献; 

「謎の古代氏族・紀氏」 内倉武久
「太宰府は日本の首都だった」 内倉武久
「卑弥呼と神武が明かす古代」 内倉武久
「文献より見た伽耶」 武田幸男
「韓半島からきた倭国」 李鐘恒
「伽耶国と倭地」 尹錫暁
「日中古代交流を探る」 いき一郎
「倭国ここにあり」 吉留路樹
「中国・朝鮮史」 吉留路樹

  
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2008年1月 公開講座 その4

cb5822f8.jpg ■2008,1,26(土)
■テーマ;東アジア(日本・中国・韓国)における古代交流の歴史
===日本人のルーツを探る===
■講 師;田所寛和さん NPO法人東アジア交流学院 

■要 旨;その4

4,韓(朝鮮)半島との関係
○高句麗「広開土王(クワンゲドワン)碑」(414年建立);中国吉林省

百済、新羅の両国は、古くからわが高句麗の支配に属しており、長らく貢ぎ物を届けてきていた。それなのに倭が辛卯(シンボウ)の年(391年)に海を渡って攻め入り、百済、□□(伽耶or加羅?)、新羅を破り、人々を倭国の民にした。そこで広開土王は軍を率いて倭軍を打ち破った。(404年)

・高句麗(コグリョ・こうくり);B,C37〜A,D668年滅亡 扶余(プヨ)族
・百済(ペクチェ・くだら);B,C18〜A,D663年滅亡 扶余(プヨ)族
・新羅(シルラ・しらぎ);B,C57〜A,D668年 以降は統一新羅
・伽耶(カヤ・かや);A,D42〜A,D562年滅亡

○なぞの5世紀

広開土王に敗れた倭のその後
・413年;倭王・讃が中国に使いを送る。
・438年;倭王・珍、安東将軍に任命される。
・443年;倭王・済、安東将軍、安東大将軍(451年)に任命される。
・462年;倭王・輿、安東将軍に任命される。 
・478年;倭王・武、安東大将軍、鎮東大将軍(479年)、征東将軍(502年)に任命される。

「宋書」倭国伝に載せられた、倭王・武の上表文
私の国は、中国から遠く離れておりますが、昔から私の祖先は、自分で甲冑を身につけ、山川を駈けめぐって、休む暇もありませんでした。そして、東の国を征服すること55カ国、西の国を征服すること66カ国、さらに海を渡って北を征すること95カ国を平定しました。私は、父祖の事業を受け継ぎ、百済から船を陛下のもとに使わせようとしますが、高句麗が無道にもわが領土を奪い、人々を殺すので進むことができません。・・・。もし、陛下の広大な徳により、倭の王と朝鮮半島南部の大将軍としての地位が認められ、強敵をくじくことができましたら、さらに陛下に忠誠をつくします。

●4世紀後半から5世紀の倭王・武までの時代には、ひたすら領土拡大に奔走していたことがわかる。なぜ、それほどまでに韓(朝鮮)半島へ領土拡大することに執着したのだろうか。それを考えるには、韓半島南端の伽耶国を抜きにしては考えられない。

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2008年1月 公開講座 その3

cad63a5a.JPG ■2008,1,26(土)
■テーマ;東アジア(日本・中国・韓国)における古代交流の歴史
===日本人のルーツを検証する=== 
■講 師;田所寛和さん NPO法人東アジア交流学院
■要 旨;その3

3,弥生時代から古墳時代へ
○中国の歴史書に見える「倭」(wa,wi,we,wo)

「漢書」地理史
楽浪郡の海の向こうには倭人がいて、百余りの国に分かれている。彼らは漢の楽浪郡の役所に毎年定期的に貢ぎ物を持ってあいさつに来ているということだ。注;楽浪郡=漢の武帝により設置された四郡の一つで、朝鮮半島北部(ピョンヤン付近)にあり、A,D313年滅亡した。

「後漢書」東夷伝
建武中元二年(A,D57年)に、倭の奴国が使者を後漢の都・洛陽(ルオヤン)に送り、貢ぎ物を持ってあいさつに来た。使者は自分を大夫(たいふ=大臣)と名のった。奴国は倭の最南端にある。漢の光武帝は奴国にその証として金印と組みひもを与えた。
※1874年、福岡県の志賀島で発見されたとされる。・・・事実か? 
倭国王の使い帥升(すいしょう)らが、160人の生口(奴隷)をたてまつり、皇帝にあいさつしたいと願い出た。その後(147〜189年)、倭国は大いに乱れ、互いに入り混じって攻め合い、長い間統一されなかった。

「魏志」倭人伝
倭は帯方郡の東南の大海のむこうにあり、山がちの島に部落国家をつくっている。景初三年(239年)、邪馬台(壹)国の女王卑弥呼(ヒミコ)から使者が来たので、魏の皇帝は「倭の女王に親魏倭王の称号と金印を授ける」という詔書をくだされた。卑弥呼の死後、径100歩の爐鮑遒辰拭その後男王が立ったが、また国が乱れたので、壱輿(イヨ)という13歳の少女を王として治まった。
注;帯方郡=朝鮮半島中部にあった漢の郡。

○中国の歴史書の記述から考えると、紀元前後から3世紀前半の日本は・・・ 

(1)倭人は毎年のように貢ぎ物をもって、中国にあいさつに行っていた。               
(2)中国皇帝から倭人に、倭国王としての金印が授けられていた。 
※倭人は強大な大国である中国に対して、その柵封を受けようと考えていた。それはなぜか?自らの出自が中国大陸だったからではないのか。                     
(3)「魏志」倭人伝にある「邪馬台(壹)国」(190年頃連合国家として成立か?)の卑弥呼も同様で、金印と銅鏡100枚を授かっている。
※卑弥呼の使者は、自ら「太伯の末裔」だと語っている。そのことは、「晋書」倭人伝に書かれている。それで中国では、日本人は「呉の太伯の子孫」だとの説がある。太伯とは、初代呉王・泰伯(太伯)を指す。日本人は呉王・夫差(B,C473年滅亡)の一族である。と考えられている。越王・勾践(B,C465年没)に敗れた夫差の一族が、東渡して日本列島に逃れてきたことは、大いに考えられる。               

●だからこそ、九州の西はるかに大陸があることを知っていて、そこの大国である中国に何代にも渡って柵封を求め続けたのである。 

 

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February 05, 2008

2008年1月 公開講座 その2

52b90745.JPG ■2008,1,26(土)
■テーマ;東アジア(日本・中国・韓国)における古代交流の歴史
===日本人のルーツを探る===
■講 師;田所寛和さん NPO法人東アジア交流学院

■要 旨;その2 

2,新石器時代=農耕の始まり

○弥生時代;

B,C500年〜(前期B,C300年〜・中期B,C100年〜・後期A,D100〜300年)とされているが、最近のC14炭素年代測定では、さらに500年ほど遡るのではないかと考えられるようになった。このことをどのように整理するか、考古学会では論議中で結論は出ていない。

この時代に使用された、薄くて飾りの少ない土器が弥生土器である。最初に東京の弥生町で発見されたので命名された。弥生土器が出土する時代を弥生時代といい、この時代の人々を弥生人と呼んでいる。

○稲作の伝来;稲作遺跡としては北部九州に多い。

・板付遺跡;福岡県福岡市にある、2,400〜2,500年前の水田跡。その水田跡に当時の人の足跡が残されていた。

・菜畑遺跡;佐賀県唐津市にある、2,500〜2,600年前の国内最古の水田跡。この遺跡から発見された炭化米のC14測定値が、日本での稲作の始まりをさらに遡らせるのではないかといわれている。

この遺跡で実施された放射性炭素による年代測定値二件は、B,C1,010年と、1,280年である。縄文時代晩期から稲作が行われていたのである。

○稲作技術伝来のルート;

中国長江下流域から直接、東シナ海を渡海し北部九州へ伝来してきた直接ルートと、朝鮮(韓)半島南部や琉球列島を経由して北部九州へ伝来した間接ルートが考えられている。以前はどちらのルートが正しいのか議論されていたが、現在ではその両方が並行してあったと考えられている。

日本の稲作伝来のルーツは、長江下流域で発見された約7,000年前の河姆渡(ホムド=かぼと)遺跡や、杭州湾北側にある桐郷(トンチャン)の羅家角(ラジャジャオ)遺跡の炭化米(ジャポニカ種)から中国江南地方だと考えられている。

稲作技術の伝来は、日本列島の社会に大変化をもたらせた出来事である。それは、稲作技術だけが単独で伝わったかのように言われているが、稲作技術(文化)を持つ人々が、集団で幾度も渡海して来たことを物語っている。

弥生時代前期から後期に渡る、日本最大の環濠集落である佐賀県の吉野ヶ里遺跡(B,C300〜A,D300年)は、その遺構や遺物から当時の中国からの技術や思想が伝わっていたことがよくわかる遺跡である。

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February 03, 2008

2008年1月 公開講座 その1

552e340e.JPG ■2008,1,26(土)
■テーマ;東アジア(日本・中国・韓国)における古代交流の歴史
===日本人のルーツを探る===
■講 師;田所寛和さん NPO法人東アジア交流学院 

今年始めての公開講座(月例会)は、これまで考えられてきた古代日本の様子を振り返って、日本人のルーツを再確認することを目的に開催した。私たち日本人が、どのように形成されてきたのかを検証してみたい。

日本列島の創世記は、旧石器時代の縄文時代に始まるが、その後の弥生時代の始まりが、今まで考えられているよりも数百年遡ることが判ってきた。縄文時代から弥生時代への変遷は、まったく異質の生活が始まったことが明らかである。

数年前に旧石器時代の遺跡から、「神の手(ゴッドハンド)」と呼ばれた人によって数々の石器が発見されたが、それらはすべてその人の自作自演の仕業であったことが新聞記者により明らかにされた。しかし、全ての責任をその人個人にだけ押しつけて良いものか、発見を手放しで賛美し検証を怠った専門家の責任も大きいといえる。

それでも、「岩宿」の発見や野尻湖の発掘調査は、当時の日本列島の様子を教えてくれて色あせることはない。弥生時代に関しても様々な発見があり、いろいろなことを私たちに語ってくれるが、それをどのように解釈して真実に迫ることができるかが問われている。  続きを読む
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韓国語教室 親睦会

a459a203.JPG ■新年会兼歓迎会
■2008,1,25(金)

今年も、韓国語教室の皆さんで新年会を開催しました。2月の春節を前に、少し早めの「春節の祝い」です。 今回は、新しく教室に来られることになったY・Kさんの歓迎会を兼ねて行いました。新しい方の加入は、大変うれしいかぎりです。早く教室の雰囲気に慣れて下さいね。それに、韓国語も上達してもらいたいですね。

今回の開催場所は、韓国にちなんで韓国料理にしました。事務所の近くにある「テジパップヤ」さんです。豚肉料理を中心にしたメニューが、食欲をそそっていいですね。期待どおりの味を、堪能させていただきました。カムサハムニダ!  続きを読む
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