November 24, 2007

NPO法人東アジア交流学院 2007・忘年会

09d441f1.JPG ■NPO法人東アジア交流学院・2007年忘年会
===これまでの東アジア交流学院の活動を振り返る===

公開講座修了後に忘年会を行った。場所は、もちろんいつもの「かくれ家・あるじゃん」である。残念ながら今年は学院長が不在なので、寂しい忘年会となった。しかし、会員外の参加や、遠く飯塚から梶村さんにも参加してもらって、楽しい有意義な会になった。

今回の公開講座では講師が久留米出身の梶村さんだったので、その続きが話題の中心となった。久留米は軍都久留米といわれ、北部九州(福岡・佐賀・長崎・大分)一円から徴兵された兵士が集められ、全ての兵科(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・戦車)が揃っている第18師団の司令部があったところである。

第18師団は、T14の軍縮で解消されていたが、1937年7月7日の蘆溝橋(ルォコウチャオ)事件で復活している。しかも、第十軍に組み込まれて杭州湾上陸を行った師団である。現在も、この時派遣された戦車隊の戦車を貨車に積み込むために作られた戦車台(プラットフォーム)が、JR南久留米駅東端に残っている。

また、第二次上海事変から南京攻略までの間に起きた、久留米第48連隊工兵隊の「肉弾三勇士」(注;爆弾三勇士と言う場合もある)は、戦意高揚に利用されたためにつとに有名である。かつては、市民会館前に銅像が置かれていたが、戦時中の金属供出によりなくなり、今は農業試験場内に台座だけがひっそりと残されている。しかしこの話には、幾種類かの隠された秘話がある。ここでは、記さずにあらためて書くことにする。

忘年会では、旨い酒と肴が進むごとに楽しい話で盛り上がった。  続きを読む

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久留米市日中友好通信 VOL.61

c0e001d3.JPG ■2007,11,23(金)発行
★今年は、なんと95人が参加!★
===留学生交流「柿狩り」===

11月18日(日)、今年も田主丸・高山果樹園で、久留米市日本中国友好協会主催の留学生交流「柿狩り」を開催しました。「柿狩り」には、市日中会員、中国語講座の人たちをはじめ、久留米大学留学生50人、久留米ゼミナール10人、中国駐福岡総領事館15人および関係者など、なんと総勢95人が参加しました。

まず初めに、市日中の中嶋会長より、「今日はとても寒い日になりましたが、みんなで柿狩りを楽しみ、またバーベキューで交流を深め、今日一日を楽しんで下さい。」とあいさつがありました。駐福岡総領事館の武樹民(ウジュミン)新総領事からも、「中国人留学生の皆さんにお会いできて嬉しい。日本での学生生活、地域の人たちとの交流を深め、中日友好のために頑張って下さい。」と、激励のあいさつがありました。

この後、みんなですぐ上の柿園に行って柿狩りを楽しみました。柿狩りが終わってからは、さらに楽しみの「バーベキュー大会」をし、留学生との交流や留学生どうしの交流と、にぎやかに一日を楽しみました。

■ご案内(予定)
◎12月 5日(水) 福岡県日中友好協会理事会 13:00〜 福岡市庁舎
◎12月 8日(土) 久留米市日中友好協会理事会・忘年会 17:00〜
◎12月 9日(日) 合肥市文化代表団来久6人
●12月11日(火) 「合肥市書が芸術作品展」 石橋美術館
●12月15日(土) 国際交流懇親会 17:00〜 久留米大学御井学舎  続きを読む
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November 22, 2007

2007年11月 公開講座 その3

dce81abe.JPG ■2007,11,17(土)
■テーマ;「中国侵略を検証する」part2
===中国東北侵略・柳条湖事件を検証する===
■講 師;梶村 晃 NPO法人東アジア交流学院

■要 旨;その3
●中国東北侵略の始まり、柳条湖事件
1931年9月18日22時20分頃、奉元(現在の瀋陽=シェンヤン)駅の北郊8kmの柳条湖で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された。その当時、満鉄守備の名目で配備されていた日本の関東軍は、これは中国側の仕業であるとして、ただちに軍隊を出動させ、隊内に秘匿されていた24センチ榴弾砲を奉天城や北大営の中国軍陣地に打ち込むなど猛攻撃を加えた。

翌19日、関東軍は奉天を占領したが、安東、鳳凰城、連山関など朝鮮軍出兵の経路にあたる都市や、営口などの要地に攻撃を加え占領した。一方国内では19日、閣議が開かれ事件不拡大の方針が決定され、同日夕刻、関東軍司令部に不拡大の制止命令が入った。

しかし、関東軍は21日には吉林に出兵し、奉天方面をわざと手薄にして朝鮮軍の出動を誘った。本庄繁関東軍司令官は18日事件直後に、林銑十郎朝鮮軍司令官に来援の要請を行っていた。そこで、朝鮮軍は満州派兵の準備をしたが、中央から越境差し止めの電報が入って、国境にある新義州で足止めをくっていた。関東軍は吉林出兵と同時に、さらに朝鮮軍の派遣を要請した。林司令官は21日ついに、独断で朝鮮軍を越境出兵させた。

22日の閣議では、これらの現地での状況を追認し、正式に朝鮮軍派遣を決め、戦費の支出を決定した。政府が当初不拡大の方針を決めておきながら、現地の軍部の独断的な行動に引きづられて行ったことは、その後の日本を戦争拡大への道を歩ませることになった。この柳条湖事件は、この後15年続く戦争の始まりとなった。

●柳条湖事件の真相
日本側は満鉄線の爆破を「暴戻なる支那軍」の行為と主張したが、実は関東軍参謀により計画され、その指示を受けた独立守備歩兵隊の河本末守中尉により実行されたものだった。

この爆破はきわめて小規模のもので、その直後に急行列車が爆破地点を無事通過している。したがってこの事件は、中国東北地方(満州)に日本軍が侵略を開始する口実とするための謀略であったことが明らかである。

当時日本は、日清、日露戦争を通じ、また対華21か条の強要などによって、中国東北部に「日本の権益」を得ていた。たとえば満鉄もその権益の一つであるが、満鉄をはさむ中国側の二本の鉄道によってその経営が圧迫されていた。また、現地住民による排日、抗日の運動が高まり、万宝山事件や中村大尉殺害事件などが起こったりしていた。

板垣征四郎や石原莞爾らを中心とする関東軍参謀は、満蒙問題はこれを日本の領土とすることによって解決するという考えを持っていた。さらに、対ソ連との国防上の問題や、国内の経済状態を解決するといった背景や意図のもとに、柳条湖事件が仕組まれ、中国東北地方の各都市を攻撃、占領していった。

※参照;戦争と平和を考える暦・柳条湖事件 梶村 晃   
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November 21, 2007

2007年11月 公開講座 その2

e36aa34e.JPG ■2007,11,17(土)
■テーマ;「中国侵略を検証する」part2
 ===中国東北侵略・柳条湖事件を検証する===
■講 師;梶村 晃さん NPO法人東アジア交流学院

■要 旨;その2

第一次世界大戦終了からの世界の動きを見ていくと、次のようになる。

●第一次世界大戦の終結=ベルサイユ・ワシントン条約体制

1,ベルサイユ条約 1919年6月28日

・連合国とドイツとの間に結ばれた条約

・講和会議は英・米・仏・伊・日の5強、特に英・米・仏が中心

・ドイツの旧領土、植民地の再分割

・東欧のフィンランドからユーゴスラビアに至る新興国の創設

・ドイツに対する軍備制限、賠償など規定

・国際連盟の創設、国際労働会議の開催(ILOの創設)他

※パリ不戦条約(米国務長官ケロッグ・仏外相ブリアン協定)1928年8月

2,ワシントン条約(7条約の締結)

1921年 4カ国条約(日・英・米・仏) 日米間の利権対立激化を調整、現状維持

1922年 9カ国条約(米・英・仏・伊・蘭・日・ベルギー・ポルトガル・中国)

・中国の主権・領土・行政的保全の尊重、門戸開放、機会均等(日本の進出を抑制)

・軍縮条約(日・米・英・仏・伊) 主力艦、航空母艦の保有トン数比率を規定

・米・英5:日3:仏・伊1,67 10年間主力艦建造停止

3,ドイツの賠償問題

・ドイツの賠償額

・ドイツの残存兵力 陸軍10万、海軍1万5千、軍艦10万8千トン

・賠償不能に対する各国の処置

・ドイツに流入した外国資本

・1930年までに210億マルク 米を中心とする外国資本

●ベルサイユ・ワシントン条約体制の崩壊

1,国際連盟

1933年2月24日 リットン報告 満州国不承認を42:1で採決

1933年3月27日 日本、国際連盟脱退

2,海軍軍縮条約

1930年1月〜4月 ロンドン海軍軍縮会議

・ワシントン条約で制限した主力艦から、補助艦まで制限を拡大

・主力艦建造を1936年まで5年間延長

・補助艦総トン数比率で妥協

1935年12月 第2回ロンドン軍縮会議 日本途中で脱退

1936年12月 ワシントン・ロンドン条約満期失効

3,ドイツ・イタリアの動き

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1935年3月 ベルサイユ条約の軍備制限条項破棄、徴兵制の復活

1936年   ベルサイユ条約の非武装地帯ラインラントに進駐

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1935年 エチオピア侵略 国際連盟経済制裁実効なし

4,三国同盟

1935年 「共産主義インターナショナルに対する日・独協定」

1937年 日・独・伊三国防共協定

1940年 日・独・伊三国軍事同盟

  
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November 19, 2007

2007年11月 公開講座 その1

93689415.JPG ■2007,11,17(土)
■テーマ;「中国侵略を検証する」part2
===中国東北侵略・ 柳条湖事件を検証する===
■講 師;梶村 晃さん NPO法人東アジア交流学院

先月の公開講座は、倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)の本拠地である八女丘陵を中心にフィールドワークを実施し、磐井とその一族の時代について検証を進めました。八女丘陵に散らばる数多くの古墳群に、7世紀に衰退した倭国の残照を見る思いがしました。

さて、今年第7回(11月)の公開講座は、現代史の暗部である日本の中国東北侵略・柳条湖事件(満州事変=9・18事変)を検証しました。講師には5月の公開講座に引き続き、NPO法人東アジア交流学院(九州・沖縄平和教育研究所)の梶村 晃さんを迎えて開催しました。

私たちの国・日本は、かつて半世紀以上にわたり対外戦争を続けてきたことを確認する事になりました。  続きを読む
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November 18, 2007

久留米市日中友好通信 VOL.60

aad5f898.JPG ■2007,11,16(金)発行
★くるめ農業まつりで「中国展」の開催!★
===久留米百年公園・リサーチセンター1階会場で開催!===

11月10日(土)11日(日)、久留米百年公園において「くるめ農業まつり」が開催されました。久留米市日中友好協会では、この祭りに「中国展」を開催することで参加しています。今年も、市日中の活動を紹介する写真展と久留米市日中友好通信の展示を行いました。

また、中国文化を知らせるため昨年に引き続き、久留米大学留学生の王文君(ワンウェンジュン)さんに、中国剪紙(切り絵)の実演販売をしていただきました。それに、久留米ゼミナール勤務の沈震(チンシン)さんに、中国琵琶の演奏を3回にわたりしていただきました。さらに、熊本県日中友好協会などの協力を得て、中国物産展も開催しました。

ただし、来年からの「くるめ農業まつり」では、市日中のブースも縮小される予定です。これからの参加の形として、中国の様々な情報を伝え発信する場に変えていく必要があります。

■ご案内(予定)
◎11月18日(日) 留学生交流「柿狩り」 10:00〜 田主丸「高山果樹園」 
◎12月 5日(水) 福岡県日中友好協会理事会 13:00〜 福岡市庁舎
◎12月 8日(土) 久留米市日中友好協会理事会10:00〜国際交流サロン  続きを読む
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November 16, 2007

2007年10月 公開講座(フィールドワーク)その4

9a69024e.JPG■2007,10,28(日)
■「倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)」part2
===筑紫の君 磐井の実像を探る===

筑紫の君 磐井の墳墓とされている「岩戸山古墳」を後に、八女丘陵では最も東に位置する童男山古墳群に向かう。童男山古墳は、徐福の墳墓ではないかといわれている。しかし、築造年代は6世紀後半であるので、その可能性はほとんどないと言って良い。

岩戸山古墳の国道3号線を挟んだすぐ東側に、乗場古墳がある。墳丘長約70mの前方後円墳で、6世紀中頃の装飾古墳である。大正11年に国指定となった。後円部の南側に複式構造の横穴式石室の入り口がある。石室内部には赤・黄・青の三色を使った三角文や同心円文などの文様が描かれている。出土した環頭大刀柄頭・人物埴輪・玉・馬具などは岩戸山歴史資料館に展示されている。

乗場古墳には寄らずに車窓から眺めるだけにとどめて、さらに東にある丸山塚古墳に寄ることにする。丸山塚古墳は、直径33m、高さ5,3mの大型円墳で、かつては周堤があったとされている。6世紀後半のものと考えられる装飾古墳である。昭和53年に国指定となった。主体部は複式構造の横穴式石室で、玄室の奥壁、羨道、玄門の袖石に赤・緑・黄の三色を使った円文・三角文・蕨手文が描かれている。

ここも公園として古墳公園として整備されている。この丸山塚古墳の周辺にも多くの古墳があるが、とても全部を見て回ることは時間的に制限されているので、最終目的地の童男山古墳へと急いだ。  続きを読む
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November 03, 2007

2007年10月 公開講座(フィールドワーク)その3

7698dd86.JPG■2007,10,28(日)
■テーマ;「倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)」part2
===筑紫の君 磐井の実像を探る===

こふんピア広川の弘化谷古墳を後に、倭国王・筑紫の君 磐井が眠る?岩戸山古墳に向かう。国道3号線を南下して、福島高校前の信号を過ぎると右手にすぐである。・・・が、話している間に通り過ぎてしまった。とりあえず右折して細い道に入ったものの・・・離合もできない道を進みずいぶんと遠回りして、なんとか岩戸山歴史資料館に到着した。(苦笑)

八女丘陵は東西約10数kmからなり、この一帯は5世紀から6世紀にかけての古墳が群集しているところである。現在150〜300の古墳があると考えられ、全国的にも有数の埋蔵文化財の宝庫となっている。この八女丘陵を中心として、旧石器時代から古墳時代までの遺跡を主として展示されているのがこの岩戸山歴史資料館である。

資料館では、館長の太郎良盛幸氏に案内と説明をしていただいた。偶然にも今回フィールドワークに参加された会員の、かつての同僚であった方である。そのためか展示の方針が変わったのかどうかは確認していないが、今回の見学では資料館内の写真撮影をすることができた。以前来たときには、厳しく断られた経験があるので意外な感じだ。たぶん、方針転換がなされたのでしょう・・・そのため貴重な画像を撮影することができた。感謝!ありがとうございます。  続きを読む
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November 02, 2007

2007年10月 公開講座(フィールドワーク)その2

f429899b.JPG■2007,10,28(日)
■テーマ;「倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)」part2
===筑紫の君 磐井の実像を探る===

大善寺玉垂宮の玉垂命は、仁徳78年(390年)に没した。しかも、三潴郡高三潴に廟院があると伝えられている。榮域に石を刻みて墓標とし鳥居が建てられ、その鳥居には高良廟とある。玉垂命は、久留米市高良山の高良大社の祭神でもある。宮司の隈さんによれば、下宮の玉垂宮から上宮の高良大社に移されたから、高良大社よりも玉垂宮が元宮ではないのかと話された。

高良大社が、「筑後国一の宮」であり九州総社なのはなぜなのか?様々な疑問が溢れてきたが、玉垂宮を後に、次の目的地であるこふんピア広川へと移動した。途中、荒木町高良台にある鷲塚・豆塚を通過した。荒木は新城(あらのき)あるいは新柵(あらのき)として、筑紫の君磐井の本拠地を守る出城があった場所ではないかと考えられる。

また、荒木中学校のグランドにはかつて大規模な古墳があって、グランド造成のおりにそこから出土した遺物が、福岡教育大に保管されていると聞いている。豆塚は、名前から破壊された古墳の媒塚かも知れない。この地も、倭国王につながるのではと思われる、古墳群があったところである。高良台の北側には上津荒木川(こうだらきがわ)、南側には広川(ひろかわ)が流れ天然の壕に挟まれた攻められ難い地形となっている。

国道209号線を南に進み、石人山古墳の側にある「こふんピア広川」にたどり着いた。  続きを読む
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November 01, 2007

2007年10月 公開講座(フィールドワーク)その1

cc0a2cda.JPG ■2007,10,28(日)
■テーマ;「倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)」part2
===筑紫の君 磐井の実像を探る===

9月の公開講座part1では、日本書紀の継体紀にある「磐井の乱」の記述を中心に、筑紫の君 磐井の実像を探る検証を行いました。また、継体紀(男大迹=オオド)に書かれた「後に勘校えむ者ぞ知りなむ」の謎を明らかにしました。

今回の10月公開講座は、古墳の被葬者が唯一特定されている岩戸山古墳=磐井の墳墓を中心に「筑紫の君 磐井」の本拠地と考えられる久留米市南部から八女丘陵にかけてフィールドワークを実施しました。

私たちはNPO法人東アジア交流学院久留米事務所に集合し、車に分乗して出発した。まずは、久留米市大善寺町にある「御塚・権現塚」古墳に向かった。

大善寺付近は、かつて水沼(みぬま)と呼ばれていた。日本書紀には水沼の君がいたことを伝えている。ここでも筑紫の君と同じように「君」が称号として使われている。また、大善寺玉垂宮も訪ねて、宮司の隈正實氏に説明をしていただくことにしている。   続きを読む
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