September 30, 2007

中国・連雲港古代交流史の旅 その9

2f4f6457.JPG■2007,8,20(月)
===「月落烏啼霜満天・・・」の寒山寺(ハンシャンスー)がある蘇州(スジョウ)===

無錫の泥人形館をあとにして、蘇州(スジョウ)へと向かった。蘇州市は、江蘇省の南端、長江三角州の中心に位置し、上海市と接している。総面積8,488平方km、6区5県級市からなる。総人口591万人の都市である。西に太湖が広がり、北東を長江が流れている。市街地の西を京杭運河が流れ、さらに細かい運河が網の目のように走っている。そのため、いたるところに太鼓橋が架かり、東洋のベニスと称えられている。

蘇州は、紀元前514年に呉王闔閭(コウリョ)が、周囲25kmの城壁を築いて都にしたことに始まり、2500年以上の歴史をもつ古都である。もともとは?蘇(コソ)と呼ばれていたが、隋の開皇9年(589年)に蘇州と改称された。宋代には刺繍と錦織が発達して、現在も刺繍はこの地の代表的な特産品である。元代にはマルコポーロがここを訪れ、その美しさを絶賛している。明代には人口100万人の国際都市であった。

現在では、上海に近いこともあり、市の東西二つの地区に工業特区が建設され、日本からも多くの企業が進出している。蘇州では、寒山寺(ハンシャンスー)、虎丘(フーチウ)、北寺塔(ペースーター)、蘇州刺繍研究所などを視察する。その前に腹ごしらえを・・・(笑)  続きを読む

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September 29, 2007

久留米市日中友好通信 VOL.59

55bebece.JPG■2007,9,28(金)発行                ★新入留学生中秋節歓迎会!★
===久留米大学新入留学生歓迎会を上海夢飯店で開催!===

9月25日(火)に久留米大学9月期新入留学生の歓迎会が、上海夢飯店で開催されました。今年も18人の9月期入学の留学生が、久留米大学で学習を始めました。この日は、中秋節(日本でも中秋の名月で、月見だんごをいただきます。)でしたので、それを機会に新入留学生の歓迎会を久留米大学の卒業生である楊明(ヤンミン)さんが企画し、久留米大学国際交流課と久留米市日中友好協会が協力して開催しました。

会場にはたくさんの新入留学生と大学の関係者が集い、久留米市日中友好協会会員である渡辺さんが進行を努める中、久留米大学国際交流センター・文学部教授の狩野さんが開会のあいさつと職員の紹介をしました。久留米市日中からは、中嶋会長があいさつをし参加した会員の紹介をした後、山本事務局長の乾杯で歓迎会が進行しました。

会場の上海夢飯店は、久留米大学の先輩である楊明(ヤンミン)さんが一昨年開店した中華レストランです。ここを会場に、新入留学生の歓迎会ができたことにとても意義深いものを感じます。今回の留学生たちも、先輩に続いてほしいものですね。

■ご案内(予定)
◎10月 7日(水) 福岡県日中友好協会理事会 13:00〜 福岡市庁舎
◎10月13日(土) 久留米市日中友好協会理事会 10:00〜国際交流サロン
◎11月10日(土)11日(日)農業まつり・中国展 10:00〜 リサーチセンター
●11月10日(土) 「響存」張 照翔コンサート 13:00〜明治安田生命ホール
◎11月18日(日) 留学生交流「柿狩り」 10:00〜 田主丸「高山果樹園」

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September 25, 2007

中国・連雲港古代交流史の旅 その8

37495687.jpg■2007,8,20(月)
===無錫(ウーシー)の恵山泥人廠(ホイシャンニーレンチャン)を訪ねる===

中国・古代交流史の旅の五日目は、昨日訪れることができなかった恵山泥人廠(泥人形工場)を午前中に訪ねることである。美しい女性の泥人形をお土産にするためにである。ホテルを出発して錫恵公園(シーホイゴンユエン)に向かう。錫恵公園の側には、無錫市街地のほぼ中央を通る京杭運河が流れている。

錫恵公園は、錫山と恵山の二つの山で構成されている。恵山は標高74,8mで、リフトでも徒歩でも登ることができる。錫山は、文字どおり錫が採掘されていた山である。かつて大量の錫を産出していたが、漢代に掘り尽くされてなくなった。それで現在、無錫と呼ばれるようになったという。

無錫市は、6区と江陽市、宣興市の2県級市から成り立つ、総面積4,788平方km、総人口442,5万人の都市である。上海に近いこともあって、郊外は急速に工場が増えて工業都市化が進んでいる。

史記によると、殷(商)代末に周の太王の長子「泰泊(たいはく)」が、現在の無錫市海村に城を築き句呉国(くごこく)を建設したという。紀元前248年には、楚の「考烈王(こうれつおう)」が現在の城中公園の位置に城郭を築いた。紀元前202年(漢の皇祖5年)に無錫県となり、現在にいたっている。  続きを読む
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September 24, 2007

2007年9月 公開講座 その3

06def5f8.JPG■2007,9,23(日)
■テーマ;「倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)」part1
===筑紫の君・磐井の実像を探る===

●俄かにして官軍動発し、襲はんと欲するの間・・・

俄かにして官軍動発し、襲はんと欲するの間、勢いの勝たざるを知り、独り自ら豊前の国、上膳(かみつけ)の県に遁れて、南山峻嶺の曲に終わる。是に於いて、官軍追尋して蹤を失ふ。(筑後国風土記)これは、釈日本紀に引用されている文である。

筑後国風土記には、日本書紀の継体紀にある記述とはちがったことが書かれている。日本書紀には、「継体二十二年(528年)の冬、十一月、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊帥の磐井と、筑紫の御井郡に交戦す。」と、一年半におよぶ戦闘の最後にようやく「遂に磐井を斬り、・・・」反乱を鎮めたことになっている。書紀には、征討軍の規模が明らかにされてないが、衆六万の軍勢を遮ったのだからそれに匹敵する軍勢であっただろう。だが、この征討軍は御井郡で磐井軍=反乱軍と交戦するまで、ほとんど戦闘をした形跡がない。記録がないのである。

それに対して、筑後国風土記では、征討軍=官軍は、俄かに起こって磐井軍を急襲したことになっている。はたして官軍が俄かに動発して、磐井を襲うことが起きうるのだろうか?しかも、磐井は密かに豊前の国に逃れて、そこで死んでいる。これは、筑後の国を支配していた磐井に対して、きわめて好意的に書かれた創作なのだろうか。実は物部麁鹿火は、筑紫の君磐井の家臣であり、俄かにクーデターを引き起こしたのではないのか?そのようにしか考えられないような状況が読み取れる。

●後に勘校(カンガエ)む者ぞ知りなむ。・・・日本書紀史官の謎カケ

日本書紀継体紀二十五条                                             春二月、天皇病甚し、丁未の日、天皇、磐余(イワレ)の玉穂の宮に崩りましき。時に八十二。冬十二月、丙申の遡にして庚子の日(五日)、藍野の陵に葬りまつる。〈或る本に云う。天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましきと。而るにここに、二十五歳次辛亥に崩りましきと云えるのは、百済本記をとりて文を為すなり。其の文に云う、「太歳辛亥の三月、師(軍)進みて安羅に至りてコットクの城を営りき。この月、高麗その王安を殺す。また聞く、日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨りましき」と。此に由りて云えば、辛亥の歳は二十五年に当たる。後に勘校む者ぞ知りなむ。〉

これは、継体天皇の崩御は一応、継体二十五年にしたけれども、ある別の本では二十八年になっており、「紀」の編纂者が二十五年にしたのは「百済本記」に「日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨」とあるので同書に従ったのだが、この点は後世の者がよく考え調べるなら判るだろうとの意味である。

継体二十五年は西暦531年。二十八年は534年に当たる。古田武彦著「失われた九州王朝」によると、次の安閑天皇即位元年が534年であるから、当然、継体の死も同じ年のはずで、そうでないと二年間の空白を生じる。空白を生じるだけならよいが、「紀」の安閑紀それ自体が「是年也太歳甲寅」と、元年は534年である旨念入りにダメを押す一方、「男大迹(継体)の天皇、大兄(安閑)を立てて天皇としたまう。即日、男大迹の天皇崩りましき」という記事があって、決定的矛盾を冒しているという。卓見である。

と、すると、「百済本記」が記録した531年辛亥の年に死んだ日本の天皇は誰なのか?天皇だけでなく太子皇子も倶に死んだのだから、これは大事件である。継体の死は534年であり、その際に太子皇子が倶に死んだという事実もない。531年辛亥の年にしても同じである。継体の死の三年前に死んだのは、磐井である。磐井の場合は、大和の軍と戦っての敗死であるから、太子皇子が一緒に死んだとしても不思議ではない。

以上のように、日本書紀継体紀の記述は、「筑紫国造磐井の乱」という一地方官の叛逆を記録しているが、事実は全く逆であったことが判明した。それだけでなく、6世紀初頭において朝鮮半島の国々からも大国としての倭国のようすが伺われるのである。磐井は、倭国(日本)=九州王朝の正統を継ぐ王なのである。これらの事実を、大和朝廷の支配者の目をかいくぐって、日本書紀に記述した旧倭国の史官たちの命がけの挑戦に、ただただ敬服する。  
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September 23, 2007

2007年9月 公開講座 その2

f5ae9907.JPG ■2007,9,23(日)
■テーマ;「倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)」part1
===筑紫の君・磐井の実像を探る===

●磐井は大和から任命された一地方官(国造)ではなかった。

大和王権一元史観=皇国史観の日本書紀では、磐井は大和王権から任命された家臣(国造=一地方官)である。だからこそ臣下が君主に対して背いたとして「磐井の乱」と称した。磐井は以前から叛逆の機を伺っていた。これを知った新羅(シルラ)が、近江の毛野臣が衆六万を率いて南加羅などを取り戻そうと派兵をすることきっかけに磐井に賄賂を贈り、大和軍の新羅侵攻を妨げたと「磐井征討」の理由づけをしている。

ここにある衆六万という大軍は、本当の軍勢なのか?これだけの大軍は、当時の人口からみても大和王権の限界をはるかに超えるものだ。後世の663年、白村江(はくすきのえ・パクソンガン)に天智天皇が百済再興を名目に送ったとされる軍勢ですら四万足らずである。当時としてはまさしく空前絶後の大軍を率いた将軍が、名の伝わらないただの近江の毛野臣というのも不思議である。しかもそのような大軍を、一地方官の磐井が食い止めたのだから、磐井の地位が一豪族などではなかったことを証明するのではないのか。

また磐井は、この毛野臣に対して「今こそ使者にあれ、昔は吾が伴として肩を摩り肘を觸りつつ、共器にして同に食いき。安ぞ率爾に使となり、余をして倆が前に自伏わしむことを得めや」と乱語(なめりごと)を言ったとする。「吾が伴」をこれまでは、毛野臣と磐井を同等の「ともだち」とするが、友とか朋ではなく「伴」というのは相伴、随伴、お供の意に使われる。磐井からすれば、毛野臣は以前は同じ釜の飯を食べ、肩を揉んでくれた、お伴の者(家臣)であったことがうかがえる。

ただし、この乱語を言った相手が近江の毛野臣か、反乱を鎮圧しにやって来た将軍の物部大連麁鹿火であるのかは定かでない。「是を以て毛野臣、中途に防遏まりて淹滞る」とあるので、毛野臣である可能性が高い。だがどちらにしても、昔は磐井の側近であった者である。「安ぞ率爾に使い」とやって来た者はどちらか?「安ぞ」とはこの場合、よくもオメオメとやって来られたものだという、叱責のニュアンスがこめられている。名の伝わらない毛野臣は正体不明の人物であるから、ここは物部大連麁鹿火であると考えられる。

●磐井の勢力圏は、北部九州から瀬戸内海西部にまで広がっていた。

磐井、火、豊二国に掩ひ據りて、修職らしめず、外は海路を邀えて高麗(高句麗)、百済、新羅、任那等の国の年の貢職の船を誘り致し・・・

磐井は、筑紫はもとより火(肥前・肥後)豊(豊前・豊後)の北部九州を支配していたことがわかる。さらに海路まで押さえているから、関門海峡から瀬戸内海西部にまでその勢力圏があったと考えられる。それに、朝鮮半島の国々から、毎年の貢職の船が磐井のところを訪れている。「誘り致し・・・」と書いてあるので、あたかも磐井が横取りしたかのようだが、間違ってあるいは騙されて国交の使者が貢ぎ物を持っていくのだろうか?

また、磐井の影響力は、海を渡った朝鮮半島南端にまで広がっていたのである。この勢力圏は、倭王・武が昇明二年(478年)劉宋の順帝への上表文にある「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐこと九十五国。」とほぼ一致する。筑紫の君・磐井は、倭王・武の勢力範囲をそのまま譲り受けたと考えて良い。時代的にも、倭王・武の子か孫に当たるのではないだろうか。したがって、磐井は、九州王朝=倭国の王統を受け継ぐ倭王である。

継体=男大迹(オオド)が磐井征討の物部大連麁鹿火に授けた言葉に「長門以東は朕之を制せむ。筑紫以西は汝之を制とれ。」とある。この発言の事実は、磐井を倒した後の領土分割案である。「磐井に勝ったら、山口から東は俺(継体)がとる。福岡から西はお前(麁鹿火)がとれ。」そう言っているのである。すなわち、大和の継体は、九州は勿論のこと、長門などの瀬戸内海の西の方は支配していなかったことを示している。これは、継体自身が言った言葉である。

以上のことを総合して検証してみると、大和の継体=男大迹(オオド)が倭国王・磐井に対して仕掛けた侵略戦争である。との結論に至る。しかも、奇襲による磐井の本拠地への攻撃で勝ち取ったことがわかる。磐井は、昔の伴に襲われるとは夢にも思っていなかったようである。そのことは、日本書紀にではなく、現在は散逸してしまってない「筑後国風土記」に書かれている。  
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September 22, 2007

2007年9月 公開講座 その1

64643c86.JPG■2007,9,23(日)
■テーマ;「倭国王・筑紫の君 磐井(イワイ)」part1
===筑紫の君・磐井の実像を探る===
■講 師;田所 寛和 NPO法人東アジア交流学院副学院長

前回8月の公開講座は、「2007年 中国・連雲港古代交流史の旅」の交流会および懇親会でした。今回9月の公開講座は、倭国=九州王朝の磐井(イワイ)に焦点を当て、これまでの定説といわれている「磐井の乱」を検証しました。来月の公開講座は、倭国王・磐井の本拠地である八女丘陵を踏査するフィールドワークを実施する予定です。

●要 旨

当学院では、この十数年来「記・紀」を読み解く学習会を開催してきた。この間、初代の東アジアの会長・故吉留路樹さんから毎月学習会を重ねてきた。今回は、古田武彦さんの著書「失われた九州王朝」「法隆寺の中の九州王朝」と初代会長の故吉留路樹さんの著書である「倭国ここに在り」をもとに、当学院学院長の内倉さんおよび副学院長の川井田さんの考証を参考に講義を構成してみた。

○はたして「磐井の乱」なのか「磐井・男大迹(オオド)戦争」か? 日本書紀最大の謎カケ「継体紀」

○筑紫の国造(くにのみやつこ) 磐井の乱・・・継体天皇崩御の謎?「後にかんがえむ者ぞ知りなむ」の意図するものは?

○大和の男大迹(オオド)=継体天皇(507〜531or534)は、本当に九州を支配していたのか?

「紀」は、磐井を筑紫の国造(くにのみやつこ)としているが、磐井あるいは彼の先祖が大和天皇家から国造に任命されたという証拠はない。「国造」そのものが継体時代の地方官職としてあったのかどうかも疑わしい。

乱=反乱(クーデター)あるいは叛逆とは、支配者に対して被支配者が軍事的に反抗することを反乱と定義する。「紀」は大和王権が任命した一地方官である筑紫の国造・磐井が背いたので、「磐井の乱(叛逆)」として継体紀に記述したのである。これは本当にそうなのだろうか?

ちなみに「古事記」では、筑紫の国造・磐井ではなく筑紫の君・磐井である。「君」とは、君主=王を意味する称号ではないのか。「君が代」の君は大王(おおきみ)=天皇(すめらみこと)のことである。筑紫の君であるなら、それは北部九州一帯を支配した王となる。しかし実際は北部九州だけでなく、日本書紀にさえさらに広範囲の支配地が記されている。

今回、その日本書紀に記述された文の矛盾(隠された事実)を、これから検証してみたい。  
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September 19, 2007

韓国語教室 朴さんのオモニの料理

2c95533f.JPG■2007,9,18(火)
===オモニの韓国料理を堪能する===

土曜日の韓国語教室講師、朴さんのご両親が当学院を訪れた。朴さんの留学生活を見に久留米を訪ねてきたのだが、実は当学院で韓国語講師をしている様子を見学に来られたのだ。だけどそれだけでなく、朴さんのオモニは、私たちに韓国料理をご馳走しようと、材料持参で訪ねてきてくれたのだ。カムサハムニダ。

韓国の食べ物と来たら、チヂミは欠かせません。事務所に来るなりあいさつもそこそこに、下ごしらえの準備に取りかかられました。事務所には調味料などがないので、指示されるままに買い物に走ります。まあ、こんなことも楽しみのひとつなんですが・・・ 韓国語教室で学ぶ皆さんが、協力を惜しみません。(笑)

当学院の韓国語教室では、語学学習だけでなく韓国料理などを通して、韓国の文化にも触れることができるのも特色の一つです。実際、韓国からの来客も多いので、このような催しを実施することがわりと頻繁に行われています。

朴さんのご両親は、日本語が全く話せないので、教室の皆さんは日ごろ学んだ韓国語でコミュニケーションをとらなければならない。の、はずなんだけど・・・なかなか思うようにはいかないようですね。それでも、オモニが作ってくれた料理を食べながらの交流が進みました。  続きを読む
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September 18, 2007

中国・連雲港古代交流史の旅 その7

d328baea.jpg ■2007,8,19(日)
===「無錫旅情」の太湖で、水に親しむ===


昼食に楊州点心を堪能して楊州市からは、高速公路の潤楊長江大橋を渡り鎮江市に入った。ここにも片側3車線の長江大橋が架けられている。中国での高速公路の建設は、日本では考えられないくらいのスピードで進められている。用地買収の手間はかからないといっても、なんともすごい早さである。

鎮江市の南のジャンクションで、南京からの高速公路に合流する。ここから、丹陽市、常州市を通り無錫へと向かう。丹陽市は、当NPO法人東アジア交流学院の中国語教室講師の顧先生の故郷である。が、高速公路は市の郊外を走っているので、遠くに眺めるだけである。丹陽市は鎮江市では、第2の人口を有する都市である。鎮江市は、3区3市からなる総面積3,847平方km、総人口267万人の都市である。

南京市から上海市までの約400kmにおよぶ高速公路は、片側4車線の大動脈である。以前利用したときは、片側2車線でだったのに・・・ここでも拡幅工事が進んでいたんですね。丹陽市を過ぎると、常州市に入る。常州市は、5区2市からなる総面積4,375平方km、総人口346万人の都市である。二つの湖の周りに広がる、蝶が羽を広げたような形をしている。

常州市を過ぎると、30分ほどで無錫市である。無錫市は、6区2市で成り立つ総面積4,788平方km、総人口443万人の都市である。市中心部の人口は、150万人ほどだと伺った。以前にも書いたと思うが、中国の市は、日本でいえば県に相当する。市域がとても広いので、中心部の人口で判断することが適当だと思う。無錫に到着して、太湖の北にあるゲン頭渚公園(ユエントウジューゴンユエン)を訪れた。  続きを読む
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September 17, 2007

中国・連雲港古代交流史の旅 その6

6adcd603.JPG■2007,8,19(日)
===鑑真和上の故郷、楊州(ヤンジョウ)へ===

南京で最初に架けられた長江大橋は、見学できなくてもさほど残念に思わなかったが、南京虐殺記念館=侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館を見学できなかったのは非常に残念だった。現在リニューアル工事中で、南京事件70周年を記念して12月にオープンされるまで見学不可となっている。それで、前日渡った高速公路の長江大橋を渡り直して、楊州へと向かった。

楊州の歴史は、春秋時代(紀元前486年)に呉王「夫差(ふさ)」がこの地に城を築いたことに始まる。鑑真和上の故郷であり、唐(タン)の天宝年間に鑑真和上がこの地より日本に向けて旅立った(5度失敗し、来日は754年)ことはあまりにも有名である。また、日本の遣唐使の多くが楊州を通って長安に入っている。空海もまた、804年に揚州を訪ねて、この地より帰国している。

現在、揚州市は総面積6,634平方km、総人口454万人。3区、3市、1県から成り立っている。中心市区には、約60万人が生活している。2005年に、高速公路の潤楊長江大橋が開通した。したがって、楊州では痩西湖公園(ショーシーフーゴンユエン)、大明寺(ダーミンスー)、京杭(けいこう)大運河を視察する。そして、楊州点心料理を堪能する。  続きを読む
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September 16, 2007

久留米市日中友好通信 VOL.58

52303e0e.jpg■2007,9,15(土)発行
★「日本青年交流代表団」に参加して!★
===竹田 進一さん(久留米大学)北京・長沙・広州を訪問!===

9月8日(土)の久留米市日中友好協会理事会に、「日本青年交流代表団」に参加した竹田さんが報告に訪れました。代表団は全国から公募され、役員・事務局員7人と団員86人(女性51人、男性35人)の合計93人が、8/28から9/5までの8泊9日で北京、長沙(湖南省)、広州を訪問して、ホームスティを体験しながら中国の青年たちと交流を深めて帰国しました。

福岡県から代表団に選ばれたのは、竹田さんだけです。代表団のメンバーは、北京のオリンピック施設などを見学し中国全国青年連合会と交流しました。また、革命家を多く排出した長沙では、省政府を表敬訪問し、一般家庭にホームスティして地元の青年たちと交流を深めてきました。さらに、広州では大学や老人ホームを訪れて、現代中国への理解を深めてきました。

■ご案内(予定)                                                  ● 9月28日(金)「国慶節」祝賀会18:30〜 JALホテルズシーホーク
◎10月13日(土)久留米市日中友好協会理事会 10:00〜国際交流サロン
◎10月 7日(水)福岡県日中友好協会理事会   13:00〜福岡市庁舎
◎11月10日(土)11日(日) 農業まつり・中国展  10:00〜リサーチセンター
●11月10日(土)「響存」張 照翔コンサート 13:00〜明治安田生命ホール
◎11月18日(日)留学生交流「柿狩り」   10:00〜田主丸「高山果樹園」  
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September 15, 2007

久留米市日中友好通信 VOL.57

85de24fe.jpg■2007,9,8(土)発行                              ★日中国交正常化35周年紀念懇談会!★                      ===初めての懇談会が、駐福岡中国総領事館で開催!===

9月1日(土)、午前10時から駐福岡中国総領事館で「日中国交正常化35周年紀念懇談会」が開催されました。中国総領事館主催の懇談会は、今回が初めて行われたもので、県内の日中友好団体が多数参加しました。久留米市日中友好協会からは、中嶋会長と山本事務局長が参加しました。

懇談会はそれぞれの団体の紹介に始まり、そして昼食を取りながら交流を深めました。福岡県内の日中友好団体が一堂に会しての懇談会は、大変有意義なものとなりました。

■ご案内(予定)                                                  ● 9月28日(金)「国慶節」祝賀会18:30〜 JALホテルズシーホーク
◎10月13日(土)久留米市日中友好協会理事会 10:00〜国際交流サロン
◎10月 7日(水)福岡県日中友好協会理事会   13:00〜福岡市庁舎
◎11月10日(土)11日(日) 農業まつり・中国展  10:00〜リサーチセンター
●11月10日(土)「響存」張 照翔コンサート 13:00〜明治安田生命ホール
◎11月18日(日)留学生交流「柿狩り」   10:00〜田主丸「高山果樹園」  
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September 11, 2007

中国・連雲港古代交流史の旅 その5

4bf8794d.JPG ■2007,8,18(土)
===古都南京の玄武湖と夜の夫子廟見学===

中山陵(ジョンシャンリン)の見学を終えて、玄武湖公園(シュエンウーフーゴンユエン)へ向かった。途中、明孝陵(ミンシァオリン)を通るが寄らなかった。

明孝陵は、明王朝を開いた太祖の朱元璋(洪武帝)の陵墓である。明代の陵墓では、最大級の規模を誇る。1381年に完成し、朱元璋より先立った馬皇后も、一緒に埋葬されている。残念ながら、戦火で焼かれ、一部しか残っていない。明代から残る石獣12対が並んだ、石像神道が有名だ。

玄武湖の真下を貫いているトンネルを通り、玄武湖公園に到着した。旧南京城の東北に位置している。したがって玄武湖は、城外になる。城壁の玄武門をくぐり抜けて、公園の入り口に着いた。だが、体調をくずした参加者が出たので、バスに乗ったまま見学することになった。長距離の移動と連日の暑さにまいった!

玄武湖公園は周囲が15kmあり、六朝時代には歴代皇帝の水遊びの場だったところで、現在は南京市民の憩いの場であり、観光名所でもある。島を渡っていると南京駅が見えた。以前来たときは古い駅舎だったが、現在は近代的な駅舎に建て変わっている。そういえば、前回訪れたときに城壁の修復作業をしたっけ!どこだったか?・・・まったくわからない!(悲)

昨日からの長距離移動で疲れも溜まっているので、最初に建設された南京長江大橋の見学を取りやめて、今夜の宿舎である状元楼酒店(南京で最高レベルの五つ星ホテル)に向かった。シャワーを浴びゆっくり休憩して、夜の夫子廟(フーズミャオ)周辺の散策を楽しむことにする。ホテルからはすぐ近くだ。

夫子廟は、市中心南部の秦淮河の近くに位置する。1034年(宋の景祐元年)に創建された。廟や付近の建物は、日本軍の南京侵攻により破壊されたが、1984年から5年かけて再建されている。ここは昼間よりも夜の方が、圧倒的に訪れる人が多い。それは、付近一帯が、イルミネーションでライトアップされるからだ。南京の恋人たちのデートコースである。

夫子廟の前の運河では、秦淮画舫(しんわいがほう)という昔ながらの遊覧船が溜まっている。私たちが行ったとき、演奏している楽団が乗った船がちょうど運河を通り過ぎていた。日没直後でまだ辺りは明るいが、イルミネーションにも少しずつ明かりが灯り始めた。これから夜の夫子廟を楽しもう。その前に腹ごしらえをしなくちゃね。食べる前には、暑いから当然ビールでしょう。体調がすぐれない人も、これで元気になれるね。(笑)  続きを読む
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