November 29, 2006

2006年11月 公開講座 その3

f4d7470a.jpg ■テーマ;重慶(チョンチン)の無差別爆撃を検証する
=東京大空襲・ヒロシマ・ナガサキにつながる「戦略爆撃」の起点=

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 元福教組委員長 NPO法人東アジア交流学院会員

■要 旨;その3

五、おわりに

1,三年間に及ぶ重慶爆撃によって、「中国国民の戦意を喪失させ、蒋介石政権を降伏させる」という戦略目標を日本軍は達成することができなかった。そればかりでなく、この行為によって中国人の日本に対する憎悪は一段と強くなった。

現在、南京大虐殺、平頂山事件、731部隊などはかなり論議され、現地を訪れる人も多い。重慶爆撃についてはほとんど論じられないし、現地を訪れる人も少ない。しかし、重慶爆撃は苛烈な長期にわたる爆撃ということだけでなく、日中戦争から日・米英戦に移っていく過程で重要な役割を演じている。

2,1937年に始まった「支那事変」戦線がこう着状態になり、それを突破し、この戦争に一応のけりをつけようとした一つがこの重慶爆撃であった。そして、日本は南方進出の方策を遂行しようとした。しかし、百一号、百二号の作戦をもってしてもそれは不可能であったが、そのまま日本は南進政策を進めた。



●当時の事象を年表から拾ってみると、
1940年9月 北部仏印(北ベトナム)進駐
1940年9月 日独伊三国同盟締結
1940年11月 日華基本条約締結(汪兆銘政府)
1941年4月 日ソ中立条約調印
1941年7月 南部仏印(南ベトナム)進駐
1941年   アメリカ対日石油輸出禁止
1941年9月 国策遂行要領決定
(11月御前会議にて正式決定し、米英開戦を決意)と続く。

このように見てくると、重慶爆撃はたんに日中関係だけでなく、米英ソ連をはじめ世界史の視点からとらえていく必要を感じる。日・米英開戦がともすると「ハルノート」を中心に論じられることが多いが、重慶爆撃もまた日米英開戦を促進した一要素に数えられる。

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November 28, 2006

2006年11月 公開講座 その2

7b015865.jpg ■テーマ;重慶(チョンチン)の無差別爆撃を検証する
=東京大空襲・ヒロシマ・ナガサキにつながる「戦略爆撃」の起点=

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 元福教組委員長 NPO法人東アジア交流学院会員

■要 旨;その2

四、重慶から始まった「じゅうたん爆撃」

武漢から遠く離れた地、重慶をはじめ四川省をふくむ「奥地」侵攻について、大本営は航空戦力を持って当たる方針を採った。この方針にそって第一回の重慶爆撃は1938年12月26日に実施された。陸軍の爆撃機総数22機は、漢口基地(武漢)を飛び立ち、13時ころ重慶上空に達したが、上空は厚い雲に覆われ、重慶市街を目視することができず、報告できるような戦果をあげることなく帰投している。

1,無差別爆撃のはじまり

あけて1939年1月7日、10日、15日と続けて陸軍爆撃隊は重慶を空襲した。その間、約10,8tの爆弾が投下されたが、「大戦果を予期した戦果」からはほど遠いものだった。重慶は「霧の都」とも言われ、1年の大半は濃い霧に覆われる。この霧が消え、晴れ間に太陽が輝くのは5月から10月までである。

本格的な空爆が重慶に加えられるのは、その年の5月、海軍航空隊によってである。5月3日、漢口基地を海軍機96式陸攻(中攻)45機が飛び立った。飛行編隊は武漢・重慶780kmを真西に進路をとった。当時の航空機のレベルでは爆弾を積んでの往路4時間、復路3時間はまさに限界に近い最大限の航路であったと思われる。したがって、航続距離(時間)の短い援護戦闘機は付いていない。

重慶では一応の防空体制を作っていたものの、都市として市民としては空爆は未経験であり、防空体制そのものも充分ではなかった。そこに爆弾だけでなく焼夷弾が降りかかってきた。焼夷弾は都市を焼き、市民に恐怖をもたらせる。後の東京大空襲の例を挙げるまでもないだろう。

海軍96式陸攻(中攻)45機の爆弾(焼夷弾を含む)、およそ32,4tは目視の照準とはいえ確実に重慶旧城郭の市街に投下された。日本の飛行隊の損害は防御放火(高射砲)を浴び、敵戦闘機30機と交戦し、2機が撃墜され、ほとんどが被弾し、乗員に若干の死傷者を出している。

翌5月4日、前日に引き続いて海軍中攻27機による重慶爆撃は実施された。飛行編隊が27機になったのは、前日の爆撃で損耗を受けた機体の中から一夜で修理・整備可能なもので編成されたからである。爆撃は前日の白昼攻撃から目視ぎりぎりの薄暮攻撃に切り替えられた。

中国国内で公式に使われている「5・3、5・4」の犠牲者数は、5月3日死亡者数1000人、5月4日死亡者数4400人。負傷は両日で約3100人とされる。(重慶抗戦紀事)

●前田哲夫著「戦略爆撃の思想」の中から、一文を紹介しておきたい。

「1939年5月4日。この日は「5・4運動」のちょうど20年目にあたっていた。1919年のこの日、北京の学生が日本の中国侵略に抗議して行った行進を契機に、反日救国運動の全国的高まりを示すことになった歴史的な日付である。・・・その対日示威の記念日に、重慶市民は首都に対する無差別攻撃というこの上もない仕返しを受けたのだった。

二重の屈辱であった。深夜になっても、火勢はいささかも衰える気配を見せない。5月4日の空襲で投弾が集中したのは下半城と呼ばれる重慶城郭の下町にあたる地区である。

年度末に集計された「民国28年度(1939年)四川各地空襲損害統計表」によると、この日の爆撃は「敵機3波27機」によってなされ、投弾数126発。被害は死亡3318人、負傷1938人、家屋の損失1086棟をはるかに上回る痛手となった。

焼夷弾の火焔がその最大要因であるのは明瞭この上なく、一夜明けてもなお各所で燃えさかっていた。空襲による一日の死傷者が5000人を超したのは、第二次世界大戦以前のこの時期、むろん空前の事態であり、空からの一撃によってこれほどの大破壊がもたらされたことも史上初の出来事であった。

だが、統計表に一括計上される「死傷5000人」も数字よりはるかに大きく、傷つき死んでいった一つ一つにまつわる悲しみと痛恨の思いが、重慶の人々を打ちのめした。やがて半世紀を経ようというのに「5・3、5・4」の記憶は、いまだ重慶市民の心を去らない。」(「戦略爆撃の思想」P146〜P147より)

1939年の重慶爆撃は10月7日で終わる。それは10月から4月まで重慶を包んでしまう霧のために中止せざるを得ないからである。5月3日から海軍航空隊の爆撃は、重慶市街地と近郊飛行場に対して、5ヶ月間で日数にして23日間、回数にして27次。1月の陸軍航空隊の3回を加えると26回、30次に及んでいる。

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November 27, 2006

2006年11月 公開講座 その1

171bc27c.jpg ■テーマ;重慶(チョンチン)の無差別爆撃を検証する
=東京大空襲・ヒロシマ・ナガサキにつながる「戦略爆撃」の起点=

■講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和教育研究所 元福教組委員長 NPO法人東アジア交流学院会員

今月は、5月の「中国人強制連行強制労働福岡訴訟を考える」に引き続き、現在の日中関係の問題はどこにあるのかを考えるために、再び梶村さんに講師として来ていただきました。

なお、前日におばさんが亡くなられたにもかかわらず、以前からの約束であったからと斎場から駆けつけていただきました。当日にはお通夜があり、翌日はお葬式という日程の中、公開講座に講師として来ていただき大変ありがとうございました。参加者一同、お悔やみを申し上げるとともに、感謝致します。合掌・・・

■要 旨;その1

一、はじめに

2004年8月上旬、中国重慶でアジアカップの日中サッカーの試合があった。その時中国の観客から激しいブーイングと政治的野次が浴びせられたという。日本のマスコミの多くは「スポーツに政治を持ち込むな」の論調を揚げ、批判的な取り扱いをした。

しかし、なぜいま、重慶においてそのような事象(事件)が飛び出してきたのか。そしてその要因を掘り下げようとする記事はほとんど見あたらない。新聞の声欄に投書されたものを見た程度である。

確かに現在の中国人の対日感情は、当時の小泉首相の靖国参拝や戦争の道を歩み始めた日本ということで、あまりよくないことは判らないでもない。しかし、問題はもっと根深いものがあるように思う。

たとえばひとつに、私たち日本人が歴史を知らないことにありはしないか。高校世界史未履修の問題は、大学受験で少しでも有利になるようにと高校側が便宜的に行ったものであるが、そのために国際社会の一員として知っておくべき大切な歴史をなおざりにして良いものであろうか。

私たちの祖先は、アジアの人々に対して多大な損害を与えた負の歴史を持っている。祖先といっても祖父や父の世代である。中には当事者の方もおられるだろう。真摯に負の歴史と向き合ってこそ、手を取り合って進む未来が訪れるのではないだろうか。

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November 18, 2006

久留米市日中友好通信 VOL.41

85097548.JPG ★くるめ農業まつり「中国物産展」開催!★
===11月11日(土)・12日(日)久留米リサーチセンターに於いて・・!===

11月11日(土)・12日(日)の二日間、久留米百年公園で「くるめ農業まつり」がありました。久留米市日中友好協会では、毎年久留米リサーチセンターで「中国物産展」を開催しています。今年も市日中の活動を広報したり、中国文化を知らせる取り組みを行いました。

今年開催された交流会の「日中友好写真展」や久留米市日中友好通信のパネル展を行うとともに、久留米大学中国人留学生の蒋小瑩(チョウシャオエイ)さんに中国の古楽器「古箏(こそう)」のミニコンサートをしていただいたり、王文君(ワンウェンジュン)さんに「中国剪紙(切り絵)」の実演販売をしていただきました。

一日目はあいにくの雨で風も強く、人出は少なかったのですが、二日目は天気にも恵まれたくさんの方々に楽しんで頂きました。ご来場頂いた方には、あつく感謝致します。ありがとうございました。謝謝!感謝!多謝!

◎ご案内(予定)
■11月19日(日) 日中友好「柿狩り」 10:00〜 田主丸「高山果樹園」
●集合場所;久留米大学御井学舎南門
●集合時間;10:00
●出発;10:15

■12月10日(日) 久留米市日中友好協会理事会 10:00〜 国際交流サロン
■12月17日(日) 久留米大学国際交流懇親会 18:00〜 久留米大学御井学舎

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November 17, 2006

2006年11月 公開講座のご案内

06343591.JPG 10月の公開講座では、伝説(伝承)として伝えられている、方士「徐福」の痕跡を探るフィールドワークでした。「徐福」がどのような痕跡を残しているかを、諸富町や瀬高町に残る様々な遺跡・遺物から検証しました。参加された方々は、熱心に質問したり、また精力的な現地調査をされていました。フィールドワークの様子はすでにこのブログで紹介していますので、そちらを参照して下さい。

さて、11月の公開講座は、元福教組委員長(現、九州・沖縄平和研究所所長であり、NPO法人東アジア交流学院会員)の梶村晃さんを講師に、中国侵略に関する講座を開催します。多くの会員の参加をお待ち致します。また、会員以外の方もお気軽にご参加下さい。

■1,日 時;2006年11月26日(日) 10:00〜

■2,場 所;NPO法人東アジア交流学院久留米事務所

        久留米市天神町116永利ビル2−D

■3,テーマ;「中国侵略を検証する」 重慶爆撃その他を中心に検証する

■4,講 師;梶村 晃さん 九州・沖縄平和研究所所長

■5,参加費;500円(会員以外の方のみ資料代として頂きます)

■6,問い合わせ;事務局0942-35-2849 携帯090-3324-9540(田所)

※公開講座修了後、NPO法人東アジア交流学院の忘年会を行います。12:30くらい〜15:00終了を予定しています。場所は「上海夢飯店」です。万障繰り合わせの上、ぜひご参加下さい。なお、お車はご遠慮下さい。

  
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November 06, 2006

知られざる「太宰府」 水城

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先日、知人からファックスが届いた。古代史に関心を持って、個人的に研究を進めている友人からであった。実に簡潔にまとめられた原稿であるので、NPO法人東アジア交流学院のブログで紹介させていただくことにする。このことで、少しでも多くの人たちの認識が変わることを期待したい。

■知られざる「太宰府」 水城
■太宰府市商工会広報委員・武藤英毅

白村江(パクソンガン・はくすきのえ)の敗戦後、唐(タン・とう)・新羅(シルラ・しらぎ)連合軍の進行を防ぐ目的で水城が築かれたと教えられている。その根拠は「日本書紀」天智天皇三年(664年)の項にある。「この歳・・・、筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ、名づけて水城という。」

1995年からの発掘調査で、土塁の中から石積み付きの別の水城が出てきている。更に太宰府側から博多湾側の壕に水を注ぐ目的で、土塁の下部に据えられていた木樋(もくひ)の年代測定値が、最新データで補正して540年頃になるという。日本書紀の記述より100年以上古いことになる。

堤の構造は、土がすべって崩れるのを防ぐ「敷粗朶(しきそだ)工法」という現代の工法と同じ構造である。土塁下部の木樋(もくひ)は丁寧に粘土でくるまれており、土中に埋められた門柱の根本も柔らかい粘土で巻かれていた。これは地震の時、門全体をゆったりと揺らせて衝撃を吸収するものである。

白村江の敗戦後の混乱時、一年間でこのような堤が築造可能であろうか?また、博多湾側の壕に水を貯えていたという通説も大いに疑問である。

前原市にある雷山千如寺の由来を書いた「縁起」に水城が出てくる。神話的記述ではあるが、外敵の襲来に水城を築いて敵を溺れ漂わせたという話である。水の入った壕に入り溺れる敵はいない。外濠を空にしておき、敵が壕内へと攻めてきたのを見計らって、内壕から一気に放流すればどうであろう。

北部九州には「満珠干珠(まんじゅかんじゅ)」の伝説が濃厚に伝えられている。海から攻めてきた敵に、海神から授けられた「干珠(かんじゅ)」を投げて潮を干し、敵が油断して舟から降りた時に「満珠(まんじゅ)」を投げて潮を満ちさせて敵を溺れさせたという話である。

海の不思議な干満を知りつくした人々、それは「倭の五王が君臨していた国」すなわち九州政権に携わった人々である。彼らこそが水城を造った人々であり、7世紀後半にそれを大和政権が修復したというのが真実ではあるまいか。後で乗り込んできた大和政権は、水城の仕掛けの役割を知る由もなかったのだろう。

「水城の土手の長々と水田は・・・わが母校」水城小学校の校歌3番である。因みに私は、水城小学校31年卒業生。水城の土手は天智天皇が築造したと教わり、ことあるごとに校歌を斉唱し、そのまま疑わず「習い性」となっている。

歴史の真実は、人為的行為・制度等によって事実の裏側に隠されている場合が多々ある。この観点からして大正初期建造の水城の記念碑は、疑問の多い日本正史「日本書紀」の記述を事実化することになると思う。(内務省境界柱有)

従って国博一周年に因んで、水城堤築造から1342年を迎えると踏襲するのは如何なものだろうと思うのは筆者一人であろうか。

歴史の真実が判明したときには、その時代の人々の手で曲学阿世を糺すべきである。今に生きる我々も後世の為、事実を正しく書き留める責任を課せられる。其の時、「世界の水城堤」は光輝くことだろう。

※参考資料:「太宰府は日本の首都だった」内倉武久・ミネルヴァ書房



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November 04, 2006

2006年10月 公開講座(フィールドワーク)その4

aee74406.JPG ■テーマ:「徐福の足跡をたずねて」PART2 方士「徐福」の痕跡を検証する
■講 師:内倉 武久 NPO法人東アジア交流学院学院長
■場 所:諸富町浮盃(ぶばい)・新北(にきた)神社〜瀬高町「こうやの宮」・釣殿宮・権現塚・車塚・堤古墳群・その他

釣殿宮(つりてんぐう)を後に、私たちは昼食を取るため船小屋の中之島公園へ向かった。今回のお弁当は、豪華というより自然な素材にこだわったヘルシー弁当である。(苦笑)

車座になって弁当を食べながら、午前中に訪れた「徐福」ゆかりの地を振り返った。話題は次々に変わり、中大兄皇子、大海人皇子と額田の君との関係にまで発展した。中大兄皇子と大海人皇子が兄弟であるという学説は、誤っていると考えられる。内容については、後日詳しく明らかにしたい。

昼食後、船小屋温泉で有名な「長田鉱泉場」に寄ることにした。「長田鉱泉場」に湧き出る鉱泉は、炭酸の含有量が日本一といわれている。幼い頃船小屋に架かる国道橋の下で泳いだ後に、ここを訪れ鉱泉に砂糖を入れて飲んだ記憶がある。

砂糖を入れた鉱泉は、まるでサイダーみたいだと教えられたが、幼い私の口にはなんとも表現しがたい味であった。今回、砂糖を入れずに飲んだが、やはりそんなに美味しいモノではないと思った。(苦笑)

しかし、ここの鉱泉は胃腸に大変良い効能があって、県内外からたくさんの人たちが鉱泉を求めてやって来ている。この日も、長崎や大分などの他県ナンバーの車が来ていた。

「長田鉱泉場」を後に、卑弥呼の墓ではないかといわれている「権現塚」や「車塚」、古代のピラミッドでは?と見られる「堤古墳群」などの瀬高町の古墳を訪れた。
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November 01, 2006

2006年10月 公開講座(フィールドワーク)その3

77525b5d.JPG ■テーマ:「徐福の足跡をたずねて」PART2 方士「徐福」の痕跡を探る
■講 師:内倉  武久 NPO法人東アジア交流学院学院長
■場 所:諸富町浮盃(ぶばい)・新北(にきた)神社〜瀬高町「こうやの宮」・釣殿宮(つりてんぐう)・その他

「こうやの宮」を後に、釣殿宮(つりてんぐう)へ向かった。ここは「こうやの宮」からほど近い場所にある。祭神は、長島国玉神(おさじまのくにたまのかみ)である。太神長島東字釣殿に鎮座する。

●釣殿宮(つりてんぐう)
釣殿宮(つりてんぐう)は、昔には腹赤宮(はらあかみや)と呼ばれた。天智天皇(皇太子の時)が西国修行の折、筑後江の崎(大和江崎)より船で小佐島(長島)に着かれたとき、里人が網を引き赤い腹の魚を食事に出し、皇太子が気に召され名を尋ねられたところ、にべ「鰚(はらか)」と答えた。天皇になられてからは毎年、大宰府にこの魚を献上し、また祝いの魚とした。

後年に行在所の地に釣殿を建立し、付近に旗を立てられた所を御幟(みはた)といい、鉾をたてられた所を鉾立の宮森(ひろたけさん)と称して今に残る。

例祭には漁民の参拝者が多く、御神幟をご神体として崇めた。社記には天皇の御親翰(ごしんがん)一軸を社殿に納めてあったが、鹿児島の島津家が手に入れ家宝としたと記されている。また東方の古島には、神籠水を安置された。腹赤魚をめぐる古文献があるほど由緒深い土地柄で見逃せないところである。

社には豊漁を祈願し、これを象徴したとみられる「日月と釣り針」をえがき、「次 宮元土佐守 文明十九年(1487)これ八月吉日」と書かれている旗が伝えられている。10月19日の祭礼には、この旗をたてて宮入りをする。長島(おさじま)地区の産土神(うぶすなのかみ)である。(みやま市の庶民信仰より抜粋)

フィールドワーク当日は、残念ながら祭礼の日ではなかったが、事前の下見の時に偶然、祭礼の儀式に出会った。
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