September 26, 2006

2006年9月 公開講座 要旨その4

e9a6027e.JPG ■「徐福の足跡をたどる」part1 方士「徐福」の痕跡を探る
■要旨 その4

4,徐福一族と海のシルクロードとの関連
●古代の徐福村は海運の拠点であった
徐福自身は、黄帝の第四子を祖とし、また除国王家がその出自である。彼は、青年期に7年間印度に留学した経験があるという。徐福はその経歴から古代中国文化だけでなく、印度文化や遠く西アジア諸国の広範な文化事情に詳しかったと考えられる。

地勢的にも、彼の一族が海のシルクロードの通商に直接関わっていたはずであり、用意周到な行動をみても日本に渡来する以前に周辺の海人族から古代日本の詳しい情勢を事前に伝え聞いていた可能性がある。

●九州王朝は古来より江南の海人族と交流
海のシルクロードを通じて渡来した西アジアの文物が、九州王朝にはもたらされていた。九州王朝は、古来より物部氏族や海人族との勢力圏と緊密な関係があった。

錦の御旗の原型そのものは海人族のものであり、軍事的にも物部氏族との強い結びつきが窺える。大陸の江南との交流があるだけでなく、朝鮮半島にも百済支援の出兵を頻繁に繰り返すなど相当な海軍力を持っていた。

徐福が発見した水路や海外情報が九州王朝には伝承されていたが、その全てが大和政権には伝わらなかった。海や南方系の神話は、当然九州王朝のものであった。

●有富の若宮神社の安曇神像群
若宮神社は、瀬高町の有富地区にある古色蒼然たる外観の神社である。この土地は古来より海人族が渡来し、大陸の文化や技術を伝えてきた痕跡が窺え、中には女神を囲んで十九体の海人像が安置されている。

海人像は彩色されそれぞれ稲や幡、武具を持った逞しい神像がある。女神は綿津見神(安曇族の祖)の娘、豊玉姫(姉)と玉依姫(妹)で、祭神は中央に若宮神、右側に春日神、左に天満神が置かれている。

たびたび合祀が繰り返され、祭神の数が次第に多くなってきた歴史がある。もとよりここは古代、海人族、安曇の根拠地でもあった。神社に安置される海人像の姿は力強さに溢れ、その迫力には感動させられる。

●太神の釣殿宮は古代の海人族のもの
釣殿宮では、古代中国の神話、江南の海人族の祭礼がそのまま伝承されている。徐福一行と海人族とは、相互に密接な関係があった。十月十九日の祭礼で用いられる旗は、錦の御旗である。


5,結果的に徐福とどのように関わってくるのか
●太古に設定された九州王朝独自の風水ポイントは、大和政権によってその多くが破壊され封印された。
●磐井の大乱の後、徹底的に九州王朝の痕跡を消し去ったであろうことは否めない。(祭祀権の収奪と王家の歴史簒奪)
●筑紫宮家、大宰府の設置で中央集権的統制が強化され、外交や防衛と対外的側面と共に、足元における九州の軍事拠点として統括指揮を執った。
●反乱分子の鎮圧と監視、筑紫の浪人を検束し続けた。(855年)
●記紀の編纂にみるように、大和政権の正当性が九州統治にはどうしても必要であった。
●同時に、これに密接に繋がる徐福や卑弥呼の事跡を意図的に正史から外し抹消した。(九州王朝系譜の隠蔽)
●なぜ、そこまで強固な姿勢で九州王朝に臨むのかを解明していかなければ、これらの謎は解けない。
●九州王朝の祭祀権を力ずくで収奪したことの後ろめたさは、否定しがたいものではなかったか。
●大和朝廷にとっても、九州の地は祭祀上の聖地(メッカ)であり得た。
●古代王朝の根源には、渡来した徐福一族の血統とも深く繋がっていたのではないか。  

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September 25, 2006

2006年9月 公開講座 要旨その3

f3661bf9.JPG ■「徐福の足跡をたどる」part1 方士「徐福」の痕跡を探る
■要旨 その3

3,太神の「こうやの宮」の謎に迫る
●みやま市瀬高町太神の「高野の宮」
みやま市瀬高町太神にある高野の宮(天慶神名帳・磯上物部神)には、七支刀を手にした武人像が安置されている。明治期に奈良県天理市の石上神宮で、七支刀そのものが発見される以前から七軒の氏子によって保存されてきた。

●七支刀を手にする武人像は一体何者か
武人像の異国風の装束を見ると、軍装というより、騎馬民族の乗馬服に近い。頭の冑様のものは装飾用の被り物のようである。頭部を覆う金属製の冑であれば、古代中国の周代にはすでに使われていた。

頭部の被り物の慣習は漢代に始まる。腰のベルト、短靴、肩掛けの様子から、西アジア方面の服装なのかも知れない。九州王朝は海外との交流があっただけに、シルクロード経由で祭礼用の衣服が渡来していた可能性もある。

●七支刀そのものの由来を考える
七支刀の表面には、象嵌が施されている。表面には、泰和四年十(一)月十六日丙午正陽像百練磨七支刀(出)辟百兵宣供供候王□□□□作、裏面には、先世以来末有此刀百済王世(子)寄生聖音故為倭王旨造伝示後世、とある。

「日本書紀」神功紀五十二年の条(372年)に七支刀の記述がある。そこには、「秋九月丁卯朔丙子、久氏等、千熊長彦に従いて詣る。即ち七支刀一口、七子鏡一面、及種種の重宝を献ず。(中略)是より後、年毎に相続きて朝貢す」とある。

刀身の銘文から泰和四年(369年)に作刀され、百済の太子貴須から倭軍派兵によって高句麗を討った御礼に倭国王旨に献上された刀である。「日本書紀」に、神功皇后が百済から献上されたとしるす「七支刀(ななつさやのたち)」にあたるといわれている。

書紀の記述通りであれば、当然神功皇后(女神像)が七支刀を手にしていなければならないであろう。こうやの宮の七支刀を持つ神像が男性像であることは大きな矛盾となる。

九州王朝の倭王に七支刀が直接もたらされ、大和政権が祭祀権を握った後に九州(筑後)から石上神宮に持ち去られたのではないか。そのレプリカ像が、筑後の地に残されていたとするとより辻褄が合う。

●こうやの宮の座像を考える
座像は九州王朝の王である可能性が高い。五体の神像のうち、座像はこの一体だけで最も大きい物である。座像の胸に描かれている五七の桐の紋は、古い時代の天皇家の副紋といわれている。ここで考えられることは、本来この紋章は九州王朝を表微するものではないか。

七支刀を持つ立像の手にする物が薬草だとすると、徐福像なのか。枝が一本欠けているが、刀剣の七支刀というより植物の枝葉のようにも見える。不老長寿の薬草を探す目的で渡来してきた、徐福の可能性も出てくる。中国の神農神と徐福とは、薬草を求めて山野を探し求めたという背景自体はまったく同じである。

7個の実、もしくは花のがくが真ん中にある桐の紋は、九州王朝の紋であったと考える。「五七の桐」の紋章と「七支刀」とは、王権と祭祀権を合わせもった表微物としての形が見事に符合する。デザインそのものは海外から渡来したものである。このこと一つをとっても、古代九州王朝の海外との文化交流の様相が窺える。

●七支刀は倭王(九州王朝)の旨の為に造られた
そもそも九州王朝の王家の紋章が周辺諸国に知られていたからこそ、百済の太子はその友好の品として、王家の紋章を模した七支刀を贈ってきたのではないのか。唐突に手の込んだ七支刀を贈ってくる必然性は考えられないところである。

後に九州王朝を表微するこの宝物を収奪したとしても、大和朝廷はそのまま宝庫に納めることも憚れて持て余したのではないか。結果的には、石上物部氏に委ねたということではないか。

だが、九州王朝と七支刀とを結びつける根拠はないと否定する向きもある。九州王朝と七支刀が関連がないとすれば、再度徐福との関連性が浮上してくる。徐福自身が七支刀を手にしていたか、それに類似したものを渡来時にもたらした可能性が出てくる。

徐福探求には古代中国、朝鮮半島周辺はもとより、当時の海のシルクロードの状況を検討していく必要がある。徐福一族、さらには古代九州王朝は海人族と密接な関係があっただけに、古来より周辺諸国との文化交流も頻繁にあったと考えられる。彼らの文化的背景を探ってみる必要があるのではないか。ここにこそ「徐福王」の大きな謎解きが隠されている。  
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September 24, 2006

2006年9月 公開講座 要旨その2

24c51076.JPG ■「徐福の足跡をたどる」part1 方士「徐福」の痕跡を探る
■要旨 その2

2,筑後には太古の巨石ピラミッドがある!
●みやま市瀬高町山門の堤古墳群
みやま市瀬高町山門に広大な堤古墳群がある。縦横220mにも及ぶ広さに、巨石が散在し筑後のピラミッドともいわれる特異な遺跡群である。遺跡群の真上には50軒ほどの民家が立ち並んでおり、遺跡そのものはすべて私有地内にある。

この堤古墳群は、その大きさと特異な巨石墳墓の規模から、地元郷土史家からは、度々卑弥呼の墓ではないかと指摘されてきた。筑後山門周辺の風水ポイントを語る上で、最も重要な遺跡の一つである。

●堤古墳群は古代の天文観測所であった
堤古墳群の真東には天満神社が隣接する。古来より主神の堤大国玉神が祭られてきたが、度々の合祀で現在は天満神社といわれている。当地の郷土史家村山健治氏の地道な研究で、ここが古代の天文観測地点であったことが解明された。

大字山門の地名が示すとおり、神社の真東に本吉清水寺がある。瀬高町大字山門より、春分・秋分の日に太陽を拝むと、堤古墳、堤大国玉神、衛門(えいもん)、本吉清水寺、日拝所、八女日向神社、筑紫の日向などの遺跡が東西に並ぶ。ここでも、古代において風水と天文が重要な祭事であったことが窺える。

●古代天文観測地点は徐福風水ラインの起点である
古代徐福が渡来した時代は、風水が高度に発達した時代である。城の造成、霊廟などの配置や構築に最適のポイントを風水術で捜し出していた。徐福はそうした方術や天文にも精通していた。当時から居住環境や農業生産や航海、さらには軍事防衛面で活用された。筑後山門の風水ラインは、徐福抜きでは語れない。

●なぜ最澄は、山門に清水寺を建立できたのか
山門清水寺建立の歴史的背景を考えると、桓武天皇は延暦2年(783年)私寺建立を禁じて、宗教界の統制を強めた。桓武天皇に徴用された最澄は、遣唐使として唐に渡りその帰国直後筑後国本吉に清水寺を建立した。(大同元年・806年)

最澄によって清水寺が建立される以前から、この地は聖地として霊廟・神殿を置くべく古代において、すでに風水ポイントが設置されていた。(その地点には何らかの社殿の遺構があったはず)この時期(桓武天皇治世)、朝廷への怨念の鎮魂が宗教的にも政治的にも必要であった。(梅原猛説)大和政権に重大な危機的状況があったことが窺える。

●筑紫大地震(679年)の被害は、過少に改竄された
「日本書紀」の天武七年十二月の条によると、この月筑紫の国に大地震があり、幅6m、長さ9kmにわたり地割れが発生し、山崩れにより多くの家屋が倒壊したと記述。ここでいう筑紫とは古代九州の筑前・筑後をさすものである。

大地震そのものはわが国の正史に一通りの記述はあるが、実は。当時筑後の国には十二郡があったが、このうちの二郡がこの天変地異ともいうべき大地震によって、一夜にして大地が広範囲に壊滅しそのまま海に没してしまった。(鷹尾神社古文書など)

筑後川の河口のすぐ南に、河南郡、河北郡の二郡が沖端川を挟むようにして広がっていた。それぞれ八百三十町余、四百三十九町余の田地面積があった。現在の久留米市や大川市、柳川市、三潴郡、山門郡の一帯が該当することになる。

災害直後に朝廷の勅使が現地の被害状況を視察し、その報告は確実に中央に伝わっていたが、その後の日本書紀編纂時には断片的な記述で済まされた。   
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September 23, 2006

2006年9月 公開講座 要旨その1

ac07b7ff.JPG ■要旨 その1
■徐福渡来伝説を検証する
●北部九州に残る徐福渡来の痕跡
古代九州には徐福が渡来したという根強い伝説がある一方で、そのことを巧妙に隠滅してしまおうとする政治的作為が随所に働いており、そこには複雑な歴史的経緯があったことが窺える。

●古代北部九州には特別な聖地があった
八女こそ徐福による天孫降臨の聖地である。神武天皇生誕地(狭野)、母玉依姫の社殿(宝満山)もこの地にあった。八女地方は、北に鷹取山(802m)、東に釈迦岳(1231m)、南に三国山(994m)、姫御前岳(595m)と三方を山に挟まれた盆地状の地形であり、有明海に面した西側の筑後山門方向だけが平野部として外に開く形をなしている。有明海から見たとき、瀬高町の清水山(345m)や山川町の御牧山(405m)が、聖地に至る道筋にある重厚な門構えに見えたのではないか。古代人にそうした認識があったからこそ、この地を特別な意味を込めて古来より山門と呼んだのではないか。

1,筑後山門周辺の徐福関連古跡の紹介
●筑後各地に残る遺跡遺物に注目する
徐福渡来と同様に大陸文化伝播の影響が色濃く残されている。筑後各地に残る権現塚は王家の墓である。瀬高町坂田の権現塚古墳は、径50m、高さ5mの円墳で周囲を幅11m、深さ1,2mの堀跡が囲んでいる。権現塚、権現山、権現岳、熊野神社、日向神社など多数。

●北部九州に点在する神籠石に注目する
久留米市高良山神籠石は、高良山の南側斜面に約1,5kmに渡り、約1300個の列石が確認されている。神籠石は、ライン状に列石を構築することに特別な意味があったのではないか。そのほか筑後地方には、杷木、女山(ぞやま)、おつぼ山、帯隈山神籠石があり、当時の北部九州が臨戦態勢状態にありながら、短期間にこれだけ大規模に、それも精緻に列石を並べたというのは不思議というべきであろう。女山(地元では女王山)の神籠石は、隣の高田町の竹飯の山から切り出されたもので、1m内外の長方形の石材を山の上に運び上げ、山の中腹を列石状に取りまく形で3kmほど整然と並べられている。列石750個が確認されている。

●古代北部九州の風水ポイントを検討する
風水(地術)そのものの起源は古く、古代中国の周代に発祥したとされる。古代における風水術は、王都周辺を守る特殊な軍事技術であり、四方に霊廟、神殿、城砦などの建造物を配置する。王都の四方にそれぞれ四神を配して、風水を整え盤石の守りとした。そのポイントはすべて風水で精査し建てるのが原則であった。古代においては、九州で台頭した物部氏族が深く関わっていたことになる。点在する神籠石の位置関係をよく見ると、独自の風水を駆使して北部九州に広範囲に王都防衛ラインが構築された可能性が出てくる。

●やはり神籠石の神域説は捨てがたい。
古代より物部氏が軍事の棟梁として、軍神を祀る。もののふ(武士)、もののぐ(武の具・武器)、もののけ(武の気)について考えると、戦時には武士の体に武の気が憑く。武の気が憑いているから、武士には戦意が備わるという。武士も特定の神域に入れば、武の気が落ちるという呪術。古代九州にシャーマニズム、呪術があったことは否定できない。古代中国では、「兵害を免れる」として、五月五日に五色の糸を肘に結ぶと「兵の鬼気を避ける」という呪術があった。

●現時点での神籠石をどのようにみるか
九州の神籠石の構築時期は、定説よりはるかに古いのではないか。列石が長く伸びて山腹を取りまくなど、実践的な朝鮮式山城とは本質的に異なる部分がある。神籠石列石は、大和政権下ではなく、古代九州王朝が独自の風水によって構築したものであり、軍事を司る物部氏族の祭祀と深く関わった構築物ではないか。神籠石自体は、いわゆる軍事的な防御機能は次第に失われてしまった。(従来の神域説は正しいのではないか)

大規模な構造物に関する記述そのものが、記紀や史書に触れられていないのは不可解というべきだろう。神籠石列石は、大和王権によって白村江(663年)の戦い以降、一部は山城構築(664年)に転用されるか破壊された可能性が高い。

後世神籠石は、寺社建立や戦国時代の築城、河川の治水や土木工事用の石材としてさかんに持ち出され破壊が進んでいった。(無用のものとなったのは事実)戦後でさえ埋蔵文化財保護法制定以前は、開発に伴う破壊を止める手だてがなかった。(地元郷土史家談)  
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September 22, 2006

2006年9月 公開講座

65a5c0fe.JPG ■「徐福の足跡をたどる」part1 方士「徐福」の痕跡を探る
●東洋医学史研究会主宰 宇田明男さん


今月の公開講座は、古代史の中で伝説として語られる徐福について、東洋医学史研究会の宇田明男さんに、「徐福の足跡をたどる」と題して、筑後地方に残る、方士「徐福」の痕跡を探っていただいた。

徐福は、約2200年前、秦の始皇帝の命令で「不老不死」の薬を求めて海を渡ったとされている。最近の研究・発見により、伝説の人物ではなく実在したと考えられるようになった。しかし、今まで日本では正史とされる記紀にその記述がないことから、あくまで伝説としてまったく顧みることがされなかった人物である。

その名が初めて記されたのは、紀元前91年に完成したとされる司馬遷の「史記」。秦の始皇帝は「不老不死」の妙薬を求め、徐福に命じて3千人の童男童女と五穀の種、百工(技術者)とともに出港させたが、徐福は平原広沢を得て王となり、帰らなかったとある。「平原広沢」がどこか明らかでないが、後の時代の書物に日本だと示唆する記述があり、日本では、青森から鹿児島まで各地に徐福にまつわる伝説が残っている。徐福の渡来は、水田稲作農耕が発展する時期と重なることから「弥生文化の使者」ととらえる研究者もいる。(西日本新聞9/12)

今、徐福については、中国での徐福村などの発見により、徐福に対する研究が盛んになってきている。私たちの郷土、福岡県や佐賀県には徐福に関する伝説や痕跡が各地に残されている。このことを再認識するためにも、八女を中心とした筑後の徐福の痕跡を探ってみた。  
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September 20, 2006

久留米市日中友好通信 VOL.38

a602b224.JPG ★日本青年交流代表団の中野くん・江藤さん帰国!★ =9月2日(土)〜10日(日)北京・武漢・上海を訪問=


久留米市日中から派遣していた久留米大学の中野くんと江藤さんが、9月4日に北京で行われた中日青年交流50周年記念式典に参加し、中国青年との友情・交流を深めて10日(日)に帰国しました。以下は、参加した江藤さんの訪中の感想です。

私は日本青年交流代表団の一員として、北京・武漢・上海を訪問しました。各地では、毎回熱烈な歓迎を受け、個人では到底体験のできない、様々な経験をすることができました。

武漢では、一日ホームスティをさせて頂きましたが、スティ先の家族の方は、私の片言の中国語・英語にもかかわらず親切に接してくれ、まるで中国に父母・家族ができた思いでした。9日間は、高層ビルが建ち並び目覚ましい発展を遂げる反面、自然破壊や貧富の差があることも知り、個人旅行では見逃しがちになる様々な様子・問題も、交流団の皆で訪中したからこそ気づき、学ぶことができたのだと思います。現在の生の中国を体験できて、益々中国への関心が深まりました。

今後も何かしらの形で中国と関わって、微力ながらも両国の関係が円滑に進むよう、自分なりに楽しく交流していきたいと思います。今回このような貴重な体験ができましたのは、日中友好協会の皆様のお陰だと思います。ありがとうございました。
江藤桂子


■ご案内(予定)
◎9月27日(水) 国慶節祝賀会 13:00- ニューオオタニ博多
◎9月30日(土) 久留米ふるさと市民授賞式10:30- ホテルニュープラザ
◎10月4日(水) 福岡県日中友好協会理事会13:30- 福岡市庁舎
◎10月5-7日  くるめ中秋節 18:00- 六ツ門・光華楼前広場
◎10月14日(土) 久留米市日中友好協会理事会10:00- 市民会館
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