October 31, 2005

11月公開講座のご案内「フィールドワーク」

会員各位様  すっかり秋めいてきました。いかがお過ごしですか。 

11月の会の公開講座は、日本の古代史の鍵をにぎっているとみられる「神話の里」福岡県前原市の遺跡や神社を訪ねます。 

10月の同講座で「なぜ、前原市なのか」を、講師の内倉がくわしく解説しました。聞きに来られなかった方は、会のホームページ「http://www.east-asia.jp」を開けて、公開講座の「10月の公開講座要旨」をご参照ください。秋の風情を楽しみながら古代のロマンに浸りましょう。 

貸しきりバスの都合などがありますので、参加希望者は11月10日までに下記へお申し込みください。  

■期  日 11月27日(日)午前8時半                                                                 ■集合場所 会事務所                                                                                         ■問い合わせと連絡先 FAX0942-35-2849 090-3324-9540(田所)090-5921-9771(内倉)                                                                                                           ■主な訪問先 狭野命(神武天皇)の兄弟、先祖などを祭る高祖神社,産宮神社、細石神社。三雲小路など王墓、平原弥生墳墓、神武歌謡の現場、その他。

  

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October 29, 2005

10月公開講座

★10月公開講座「卑弥呼と神武天皇」の要旨★

内倉が担当した前回4月の講座では、邪馬壹国(邪馬台国は正確な国名ではない。ヤマイコク)の女王・卑弥呼は、魏志倭人伝など中国の歴代史書の記載から、中国南部の呉の国から渡来した姫(キ)氏の末裔であり、「大夫」「鬼道」「一大率」「明堂」などの記述や物証から、中国・周王朝の政治、文化を具現しようとしていた。そしておそらく、彼女らが奉祭していたのは原始的な道教であり、「太上老君」とか「黄帝」を主神としてあがめていたのではなかろうかと推測した。

 今回は、日本の「正史」とされる日本書紀で初代天皇とされている神武天皇は、古代史学界では架空の人物とされているが、実は確実に実在した人物であり、しかも卑弥呼と深い関係にあることを報告した。伊都国から邪馬壹国へ  魏書倭人伝には、邪馬壹国内の重要な国として「伊都(イド)国」が記載されている。邪馬壹国の主力軍「一大率」が置かれていたのはこの「伊都国」であった。

そして、伊都国は「常に使者が駐まるところで、海外から賜物、国の贈り物はすべてここで点検させた」という。「旧唐書東夷伝倭(イ)・日本」伝の冒頭には、「倭国は古の倭奴(イド)国なり」と記録されている。これはすなわち、「邪馬壹国以前には倭奴国=伊都国が、(中国に対して)日本を代表していた国であった」という意味である。

魏志にいう「伊都(ido)国」が、後の中国正史に言う「倭奴(ido)国」であることは、論をまたない。なぜなら「倭」は少なくとも6世紀ごろまでは「wi:」としか読めない漢字であるし(説文解字等による)、「奴」も唐王朝が使った漢音で「do」と読むべきものであるからである。

これらの記述は、福岡市の志賀島出土と伝えられる「漢の委奴(ido)国王の印」の存在からも裏付けられる。日本の古代史家の多くはこの「委奴国」を「wa(no)na(no)国」と読み、邪馬壹国内の一国である「奴国」に与えられたのだという。これは定説化している見解であるが、古代中国の印制や漢音、呉音の違いに無知であるための明らかな誤りである。

古来からの中国の印制で、金印が与えられるのは中国王朝の皇族級か、一定の広域を代表する「大王=侯王」だけである。「倭国、邪馬壹国」という、中国の属国のさらに下位に当たる「奴国」に金印が与えられることは決してない。「奴国」に与えられるとすれば銅印である。中国が日本列島の王者として認めていた「委奴国=伊都国」だから金印が与えられたのである。

「奴」を日本の古代史学界は「ナ」と読んでいるが、明らかな間違いである。中国北方の「匈奴」を呉音の「kyouna」ではなく、漢音である「kyoudo」と読む。漢音や呉音に注意を払わず、都合のよいように適当に使っているのである。実にいいかげん、というほかない。

伊都国の中心地とされる福岡県前原市の井原鑓溝、三雲小路、平原弥生墓などの遺跡からは、大量の中国製の鏡計82面や、直径46.5センチもある世界最大の日本製の鏡5面が出土している。これらはまさに中国との緊密な関係と、伊都国の権威と強力な政治力をうかがわせる物証である。

「奴国」は「戸国」 「奴(do)国」は、魏志倭人伝には同名の二国が記されている。最初に出てくる「奴国」は同じ博多湾岸でも「那の津」ではなく、西側の福岡市西区に残る「山門(yamado)」の地域を指し,二番目の「奴国」は有明海岸の福岡県山門(yamado)郡周辺であろうと思われる。博多湾岸、有明海岸それぞれから「邪馬壹国への入り口(戸=do)の国」のことと考えられる。

次に、日本の史書「古事記」「日本書紀」(記紀)と伊都国、邪馬壹国はどうリンクするのかという問題である。特に、邪馬壹国と伊都国、記紀に記される狭野命(サノのみこと=贈り名は神武天皇)との関係についてである。「古事記」には邪馬壹国の記事は皆無であり、「日本書紀」には後の時代の神巧皇后紀に「魏書に云く、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米詣郡……」など割注を入れるだけである。これとて後世の書き入れである可能性がある。

故灰塚照明氏らは、「伊都国」の所在地である前原市東部と福岡市西区の西南部一帯が古くから「日向(hinata)」と呼ばれた地域であったことを明らかにした。記紀にいう「筑紫(Chikusi)の日向」がまさにこの地であったのである。

付近には今も「日向峠」、「日向川」、小字「日向」が残っている。記紀にいう狭野命(神武天皇)は、「東に良き地あらん」と「筑紫の日向」から宇佐に向かったという。「筑紫の日向」はまさに宇佐の西にある。決して一般に信じられているような「宇佐の南」である「宮崎県の日向(hyuga)」ではない。

要は、狭野命は西日本を代表していた「旧伊都国」の支配者=王室の人であったと考えられる。伊都国の地、前原市には狭野命をはじめ神武の兄弟、父鵜草葺不合(ugaya fukiaezu)、母玉依姫(tamayorihime)、最初の王と後を継いだ王である瓊瓊杵(ninigi=複数人で襲名か)など一族を祭った高祖神社などの神社が現在でも十数社残っている。記紀の記録にはない神武の姉「奈留多(naruta)姫」を祭った「産宮(san no miya)神社」もある。

特にこの「産宮神社」の存在は、これらの神社が記紀の記述にそって造られたものではない重要な証拠のひとつであろう。神武らが東侵の途中で唱ったという歌の文句に出てくる「伊勢の海」「大石」「宇陀」などの地名や遺跡も残っている。神武らの伝説は日本の古代史家が主張するような「8世紀の史官がでっちあげた神話」では決してないのである。

11月27日(日)に現地見学会を催す。ではなぜ、狭野命と長兄五瀬命(伊勢命)らは「東に行こう」と思ったのか。そしてその時期はいつなのか。 魏志は邪馬壹国連合誕生の前史として、「その国、本また男子を以って王となし、とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年」と記す。

後漢書は、この戦乱を「大乱」と評した。「大乱」はただ「大いに乱れる」の意味だけではない。「臣下が君主を冒すこと」を意味する漢語である。すなわち「政権の交代があった」と言っているのである。これは、「旧唐書」など中国史書の記載から考えると、この「大乱」は伊都国に従属していた卑弥呼らの邪馬壹国が反旗をひるがえし、主権を奪ったことを意味しているとしか考えられない。

ということは、主権を失った伊勢(五瀬)命と弟の稲飯命や三毛入野命、そして狭野命(神武天皇)らは、前原・日向を去るより仕方がなかったのである。去らねばおそらく死を覚悟せねばならなかったことも考えられる切羽詰った状況であったのだ。伊都国である前原市一帯は、風光明媚、山の幸と海の幸、鉄資源にも恵まれたすばらしい土地である。さしたる理由もなく離れられる場所ではない。どうしても逃げ出さなくてはならない状況があったのである。

こう考えると、彼らの「東侵」の時期は、卑弥呼政権の誕生とほぼ同時であると考えられる。また、伊都国の人口を、「魏略」では「万余戸」、「魏志」では「千余戸」としている。短期間に人口が10分の1になったのだ。異常事態である。しかしこれは、「大乱」を通じて邪馬壹国連合に徹底的にたたかれ、殺されて人々は四散し、人口が一気に激減。さらに神武一派が大和へ「東侵」した結果を物語っているのである。

邪馬壹国時代にも伊都国は存在していたことが魏書には記されている。では、神武らが去った後の魏志にいう卑弥呼時代の「新・伊都国」の王は誰だったのか。記紀によれば、神武らは、祖父瓊瓊杵(ニニギ)の命の三子のうち彦火火出見(日子hohodemi=山幸)の系統である。

書紀本文によれば、火火出見は瓊瓊杵の命の第2子で、兄に彦火闌(日子hosuseri=海幸)命、弟に火明(hoakari)の命がいた。ホホデミ=山幸彦は兄の海幸彦から借りた釣り針を失くしていじめられたが、海神の助けで兄を「降参させた」という。系が正当な後継者である海幸系やホアカリ系を屈服させ、伊都国の王座に着いたことを物語っているのである。

重要なことは、火闌(海幸)は書紀本文では末子とされるが、古事記や日本書紀本文以外の「一書」群では長兄と記録されている。本当は正当な「伊都国=倭奴国」の後継者であった可能性を暗示している。

しかし、「邪馬壹国の乱」で立場が逆転したと考えられる。伊都国の主権をめぐってホホデミ系とホアカリ系とで内紛があり、これが「大乱」に発展。ホアカリ系は反逆者・卑弥呼・邪馬壹国側に担がれたのであろう。

おそらく、山幸系の神武らが去った後、本来の王権継続者であるホアカリ系が邪馬壹国に従属する形で王を名乗り、昔日の権威だけはなんとか保ったのではないだろうか。

記紀には、このホアカリ系についてもほとんど記述がない。記紀は邪馬壹国連合に敗北し、東侵して「大和政権」を建てた神武・火火出見系の史書であるから、反逆者である邪馬壹国や卑弥呼同様、ホアカリ系の王朝の記録をカットしているのである。(学院理事長・内倉記)

  
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